このところ「脳疲労」の本や記事がネットで目立つ。
「脳疲労」の原因として、ネット社会における情報過多を指摘し、
「脳疲労の回復には《考えない時間》、すなわちボーっとする時間が大切だ」
とする。
納得である。
「ならば」
ということで、「脳疲労」を回復させようと、風呂やベッドで目をつむり、無念無想を試みてみるが、これがうまくいかない。
逆効果である。
無念無想どころか、「妄念妄想」が次から次へとよぎり、かえって脳が疲れてしまうのだ。
「ならば」
ということで、ヒントをもとめて禅宗の坐禅について調べてみると、呼吸を数えるという方法があった。
1回の呼吸を、ゆっくり1と頭の中で数え、10まで数えたらまた1にもどるというもの。
これを私流に解釈すれば
「無念無想など不可能で、一つことに意識を集中することによって他の意識を締め出す」
ということではないのか。
(そうだ、釈迦がそうなのだ)
唐突に、お釈迦さんの菩提樹の下でのさとりに思いを馳せる。
お釈迦さんは菩提樹の下に坐り、禅定(雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想)に入ったところが、
「そうはさせじ」
と、魔王が現れてあの手この手で邪魔をするが、お釈迦さんはこれを退けてさとりを開くのである。
私流に裏読みすれば、お釈迦さんは当初、無念無想で禅定に臨んだがゆえに魔王という「妄念妄想」が次々に脳裡をよぎったのではないか。
そして、そのことに気づき、坐禅で呼吸を数えるがごとく、何か一つに意識を集中することで、他の意識を締め出したのではないか。
勝手な裏読みたが、こういう想像は実に楽しく、思いはさらに広がっていく。
「無念無想など不可能で、一つことに意識を集中することによって他の意識を締め出す」
という発想で物事を考えると、何にでも共通することがわかる。
たとえば「自由」。
完全なる自由というのはあり得ず、「自由に生きていいぞ」と言われると、どう生きていいか戸惑い、かえって不自由になる。
つまり、呼吸を数えるように、たとえば「仕事」など一つの「不自由」に集中(義務化)することによって、自由は得られるのではないか。
幸福もしかり。
完全なる幸福など幻想で、労苦を一つ抱えてこそ幸福を認識できるのではないか。
しかるに私たちは「不自由」を厭い、「労苦」から逃れようともがく。
だから自由になれず、幸福にもなれず。
この状態を「自由疲労」「幸福疲労」というのではないか。
そして、ハッと気づく。
こんな、ろくでもないことを考えるから私の脳は疲労しているのではないか。
「バカなこと考えてないで、さっさと原稿書け」
もう一人の私が叱咤するのだ。