お釈迦さんは家庭を捨てて修行の旅に出た。
見方を変えれば「蒸発」である。
もっと言えば「身勝手」。
捨てられた妻子はたまったものではあるまい。
だが、このエピソードは「美談」として語られる。
「お釈迦さんは妻子を捨ててまでさとりの道を求めた。素晴らしい!」
と、こうなる。
つまり、お釈迦さんがさとりを開き、仏教という「救いの道」を見つけ、それを広めた偉人だから「美談」になるのだ。
私たちのような凡人が、
「人生、いかに生きるべきか」
とか何とか言って、妻子を捨てれば間違いなく世間から石を投げられる。
お釈迦さんだって、さとりを開かずしてノンキに暮らしていたなら、
「妻子を捨てて、ひでぇヤツ」
そう言われただろう。
また、お釈迦さんは我が子に「ラーフラ」と名付けた。
「障害(束縛)」という意味だ。
我が子が生まれたとき、
「出家への束縛が生まれた」
とお釈迦さんが言ったことが名前の由来とされる。
「さすがだな」
と、これも賞賛だから、考えてみたらひどい話ではないか。
以前、我が子に「悪魔」と名づけたことで親が世間からバッシングされたが、このとき親はお釈迦さんを引き合い出せばよかったのだ。
「お釈迦さんだってラーフラって名づけてるじゃないか。どこが悪い」
そう言って居直ればどうだったか。
「子供が可愛いそうじゃないか」
と言われれば、
「バカ者。ラーフラはのち釈迦のもとで出家し、十大弟子なっているではないか。子が父親を尊敬することと名付けは関係しないのだ」
これでいいのだ。
世間の評価や評判は「結果」で決まる、
「終わりよければ、すべてよし」
これが現実なのだ。
極貧の家庭で育ち、長じて極悪非道の犯罪をしたなら、
「あの家庭環境で育てばそうなるだろう」
と世間は見るし、逆に立身出世したなら、
「あの家庭環境が奮起させた」
と、美談になる。
こう考えると、人生の勝負どころは、終わりが間近になった後期高齢ということになる。
さて、
「終わりよければ、すべてよし」
となるか。
そう思うと、晩年の人生もまた、楽しみなものではないか。
愚妻に話すと、
「バカなこと言ってないで、私に迷惑をかけなければ、それで万々歳だわよ」
夢のないことを言うのだ。