歳時記

鏡に照らして白髪を見る

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必要があって、過去のダイヤリー(手帳)を引っ張り出した。
週刊誌記者時代の習い性とでもいうのか、特にどうこうする意図はないのだが、手帳は捨てないですべてとってある。

ざっと見たところ手帳は40冊ほどあるから、私が30歳ころから取り置いていることになる。

パラパラとめくるが、アポの日時と相手が書いてあるだけで、
(この人、誰? なんの用事?)
というのも少なくない。

反対に、
(えっ、あの人と会ったのは35年前なのか!)
記憶の不確かさを思い知らされつつ、なるほど光陰は矢の如しであると、感心もするのだ。

漢詩がえらく気にいり、十数年前に詩吟を囓ったことがある。

その当時はパラパラとめくってスルーしたが、私のいまのお気にいりは、張九齢(中国唐代中期の政治家・詩人)の『鏡に照らして白髪を見る』である。

宿昔 青雲の志
蹉跎(さた)たり 白髪の年
誰か知らん 明鏡の裏(うち)
形影自ら相(あい)憐れまんとは

意味は、
「若いころは青雲の志をいだいたが、何度も挫折をくり返しているうちに白髪の歳になってしまった。まさか、鏡のなかの自分を見て憐れむようになろうとは」

これに良寛の詩の一節、「辛苦 虎を画きて 猫にもならず」を重ね合わせると、老境にはいって誰もが感ずる心境ということになるだろう。

だが、大事なのはここからで、白髪の齢に嘆息するか、
「ま、それなりに楽しかったわい」
と笑うか。

それによって人生は決まる。
すなわち、終わりよければすべてよしとは、こういうことを言うのだろう。

このことを愚妻にさとすべく、私は『鏡に照らして白髪を見る』を詠んで聞かせ、意味を解説ようとすると、それをさえぎって、
「あら、あなたはツルっ禿げで、白髪じゃないでしょう」
話の腰を折るのだ。

「そういう意味ではない」
「じゃ、『鏡に照らしてツルっ禿げを見る』と言えばいいじゃないの」

猫に小判なら、愚妻になんとやらなのだ。

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