歳時記

チラシを配って思う「会釈する社会」

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 昨夕、保護司活動の一環として、成田駅前で、薬物乱用防止キャンペーンのチラシ+ティッシュを配った。
 気持ちよく受け取ってくれる人、ブスっとする人、無視する人と、態度はいろいろだが、不機嫌な顔で無視されるのは、やっぱり嬉しくはない。
 むろん、私たちが勝手に配っているのだから、どんな態度を取ろうと相手の自由。ブスっとされようが、無視されようが、私が文句を言う筋合いではない。
 それはわかっている。
 わかっていて、やっぱり気分はよろしくない。
(何もそこまで、つっけんどんな態度を取らなくてもいいじゃないか)
 と、身勝手を承知で、うらめしく思ってしまうのである。
 しかし、受け取らない人のなかにも、ニッコリ笑って「ごめんなさい」といった雰囲気で会釈していく人がいる。
 これは気持ちがいい。
 
 勝手に配っておいて、ニッコリ笑顔で「ごめんなさい」風をやられると、恐縮してしまう。
(この人は、きっとみんなから好かれているんだろうな)
 と思う。
 こういう人と知り合えたらいいな、と思う。
 ひるがって、自分はどうだろうか、と考えた。
 街角でビラやティッシュを配っている人に対して、どんな態度で接しているだろうか、と反省した。
「勝手に配っておいて、邪魔だ」
 という言い分は確かに正しい。
 だが、人間は、それでいいのだろうか。
「理屈として正しいこと」が、「人間として正しいこと」なのだろうか。
 違うのではないか、と思った。
 私たちが誇った日本の美風の一つに「会釈」がある。
 正しいか、正しくないか、といった理屈を越えて、お互いが尊重し合い、その現れが会釈ではなかったろうか。
 そのことを、私も含め、忘れかけているような気がする。
 権利ばかりを主張する殺伐とした世のなかとは、会釈のない社会ではあるまいか。
 チラシを配りながら、そんなことを思った次第。

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