歳時記

ASKA容疑者に思う

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 連日、ASKA容疑者(という呼び方も、何だかヘンだが)のことがメディアをにぎわせている。
 愚妻がワイドショーを見ながら、
「お金も、地位も、名誉もあるのに、なんでクスリなんかやるのかしらねぇ」
 と疑問を口にする。
 愚妻が言わんとするのは、
「薬物ごときと引き替えに、これまで築き上げたものを失うのは、何とバカなことか」
 という意味だ。
 単純に考え過ぎるというのか、人生を即物的に図式化してみせるのは愚妻の得意とするところだが、
「なんでASKAは?」
 という疑問は、つきつめていけば、深い意味をもっている。
 ASKAに限らず、たとえば先ごろ、女子中学生の体育着を盗みに学校に忍び込んで逮捕された、別の学校の職員がいる。
 あるいは定年を目前にして、電車で痴漢を働き、懲戒免職になる公務員もいる。
「なんとバカなことを」
 と私たちは思うが、ここが人間の摩訶不思議なところ。
 親鸞は、人間のこの摩訶不思議さを、
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
 と、すべては「縁」によると仏教的解釈をする。
 浅学の私は、もっとひらたく、
「感情は理性で抑えられない」
 と受け取る。
 感情は「煩悩」と置き換えてよい。
 煩悩を理性でコントロールできると考えるのは、人間の傲慢である。
 感情は、理性でコントロールするのではなく、理性で〝飼い馴らす〟のだ。
 そのことを説くのが、すなわち仏法ということになる。
 では、仏法は何を説いたか。
 感情は理性ではコントロールできないということである。
 言葉を変えれば、
「そうした人間の本質を知れ」
 ということになるだろうか。
 感情というコントロール不能の〝爆弾〟を抱えて生きているということに真に気づけば、日々の処し方は当然、変わってくる。
「なんでASKAはクスリをやったのか」
 という疑問を一歩進めれば、
「なんで人間が抱える〝爆弾〟に、これまで気づかないできたのか」
 ということになる。
「なんで?」
 という問いは、ASAKA容疑者でなく、自らに発するものなのである。 

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