歳時記

「主体」は我なり

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 昨日は、松戸市の天真寺で龍笛(りゅうてき)の稽古。
 H先生の熱心な指導で、一心不乱の3時間である。
 それにしても、H先生は愚息と同い年。
 まさに年齢が親子の違いがあるにもかかわらず、ワガママな私が素直に指導され、お小言を頂戴しているのだ。
 愚妻にそのことを話すと、
「信じられない」
 と真顔で驚き、私も真顔で、
「わしも信じられない」
 と返事する。
 その理由をつらつら考えてみると、
「私が望んで指導を仰いでいる」
 ということに突き当たる。
 つまり、「私が望んだ結果」において「指導」が成立しているわけで、自分自身に対する精神的なイニシアチブは「私」にあるということなのである。
 もってまわった言い方だが、要するに仕事も趣味も、「反発」は「強制」されることにおいて生じるということなのだ。
 私は酒をやめて六年になる。
 何となくやめようと思っただけで、特に理由はない。
 医者から強制されたわけでもないし、健康のことを考えてのことでもない。
 だから、いつ飲み始めてもいい。
 この「気持ちの余裕」、すなわち精神的なイニシアチブが「私」にあることによって、断酒はまったく苦痛にならないというわけである。
 こうした経験から、不平や不満は、イニシアチブが取れない状況において生じてくるということがわかる。
 すなわち、意に染まない仕事でも、人間関係でも、
「それは私が選び取ったものであり、イヤならいつでも辞めればよい」
 という意識を持つことが、人生の不平不満から自分を解き放たつコツということなのである。

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