仕事にリタイアはあっても、人生にそれはない。
定年になったからといって人生が終わるわけではないにもかかわらず、大きな節目をおぼえるという。
この感覚が「人生のリタイア感」というやつなのだろう。
私は人生を通して自由業なのでこの感覚はよくわからないが、仲間の自由業者も同じことを言うので、どうやら「仕事=人生」ではなく、
「勤める=人生」という価値観であり、感覚なのだろう。
となれば、定年で人生にひと息つくのは当然で、「セカンドライフ」が大きなテーマになる。
ところが、自由業の人間は「定年」がないので、ひと息つこうにもその節目がない。
私など後期高齢者のこの歳まで、延々と「仕事」をし、いまもしているので「セカンドライフ」という発想がないのだ。
だから「セカンドライフ」ということを考えれば、自分で「定年」を設定しなければならない。
何を基準にするか。
年齢である。
「○歳になったらリタイアだ」
と決めるのである。
私は70歳でリタイアするもりでいた。
当時、愚妻にそのことを宣言すると、
「ちょっと、好き勝手に生きてきて、何からリタイアするのよ」
一蹴された。
しょうがないから「定年」を75歳に設定し直し、その歳を迎えた私は、
「よし、リタイアだ」
愚妻に再度宣言すると、
「リタイアして何をするのよ」
「ゆっくりするのだ」
「これまでと一緒じゃないの」
またも一蹴された次第。
私は「好きなことをやる」という発想をしない。
「嫌いなことはやらない」という価値観だ。
だから、嫌いでなければ、好きでなくても受けれる。
「ストライクゾーンを広く」という生き方である。
この価値観と生き方が、愚妻のような凡夫には好き勝手に生きているように見えるのだろう。
愚妻のような30センチの物差では、ビルの高さを測ることはできないのだ。
「ホトケの慈悲も智慧も、凡夫のおまえには理解の及ばざるところだな」
「誰がホトケなのよ」
「わしじゃ」
「なに言ってるの。あなたは、放っとけの、ホットケでしょ!」
最近は、ダジャレをまぶして反論してくる。
愚か者は牛歩のあゆみであっても、歳月を経れば少しは前に進むということか。
定年をいつにするか、仕切り直しをしながら、そんなことを考えるのである。