このブログを読んだ友人から昨朝、メールがきた。
寝るために聴くには尺八のCDがよく、『鹿の遠音』がお勧めで、必ず眠くなるとのこと。
すぐさまアマゾンでポチ。
愚妻にはもちろん内緒だが、夜の8時前になって配達完了のメール。
着信音と同時に、そそくさと郵便受けに行くため愚妻にはバレバレで、
「ちょっと、またCDなの!」
怒りを買いつつ、これまたそそくさとベッドに入ると、電気を消し、尺八CDを聴く。
確かに、寝ながら聴くと心地よい。
今朝も3時45分に起床したが、いつ、どのように寝入ったのか記憶がないところをみると、〝誘眠効果〟はバツグンということか。
(だが)
と、余計な考えが脳裡をよぎる。
「寝入る」とはどういうことか。
「覚醒」とは「眠っていないこと」であり、「眠る」は「覚醒してないこと」である。
ならば、「寝入る」とはどういう状態か。
覚醒していないのだから、「寝入った自分」を知覚することはできないという理屈になる。
ついでに言えば、「夜が明ける」とはどういうことか。
明ければすでに「朝」になっている。
明けなければ、まだ「夜」だ。
ならば、「夜が明ける」とはどういう状態を言うのか。
原稿を書くため早朝に起きているのに、非生産的なことが頭をよぎり、こうして非生産的なブログを書きつつ、ハタと気づく。
最近、やたらと睡眠をめぐるテレビ番組が目につくが、動物の中で睡眠を問題にするのは人間だけではないか。
トラやゾウやカメレオンが〝誘眠〟のことなど考えはしまい。
危険がないと思われるときに素早く眠り、あとは周囲に警戒を配っている。
動物である人間も本来、そうあってこそ自然なのではないか。
眠くなったら眠ればよい。
仕事をしたければすればいいし、気が乗らなければ寝っ転がっていればよい。
これが本来いうところの「晴耕雨読」の生き方ではないか。
辞書を引けば、晴耕雨読とは、
《晴れた日には田畑をたがやし、雨の日には家で読書すること。悠々自適の生活にいう》
とあるが、そうではない。
私流に解釈すれば、
《天気にかかわらず、田畑をたがやしたければたがやし、読書したければすればよい。勝手気ままな生活にいう》
ということになる。
だが、こうした生き方は働き盛りには無理で、高齢になってこそ可能になる。
加齢の〝役得〟である。
ありがたいことではないか。
落語から始まってお経、クラシック、オルゴール、そして尺八。
ここ2週間、〝誘眠〟についてあれこれ試行錯誤をして辿り着いた私の結論である。