歳時記

旧友に見る「我が姿」

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昨日、旧友に会った。
都内の喫茶店で待ち合わせた。
店内を見渡したがいなかったので、外で待っていようとしたら、奥の方から手を振っている年寄りがいて、それが旧友だった。

昔日の面影は今いずこ。
順調に歳を重ねていて、街ですれ違ったら気がつくまい。
人ごとでなく、これは私も同様だろう。
なるほど人間は、容姿も心も変わりゆくものだと感慨しきりだった。

『男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」
という慣用句がある。

原文は『三国志演義』が出典で、

「士別れて三日、即(すなわ)ち更(さら)に刮目(かつもく)して相待(あいたい)すべし」

つまり、

「士たるもの、別れて三日もすれば大いに成長しているものであって、また次に会うときは、目をこすって違う目でみなければならない」

という意味だ。

これまで私は、この言葉は人生の肯定であると受けとめてきたが、旧友に会ってみて、もっと深い意味があるのではないかと思った。

若くて人生の登り坂のときは、まさにその成長ぶりに刮目するも、一転、老いに向かって下り坂のときは、その「衰退ぶり」に刮目しつつ、もって人生の何たるかを考えよ、という意味もあるということだ。

だが一方で、
(待てよ)
とも思う。

過日、会った別の旧友は石川啄木に造詣が深く、啄木について語ってた。

『こみ合へる電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの我のいとしさ』

『ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく』

『ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな』

よく知られた啄木の歌の一例だが、啄木はわずか26歳にしてこの世を去っている。
そうと知らず、こうした彼の歌に接すれば、「老」にして回顧する青春への愛惜を感じてしまう。

どうやら「老い」は絶対年齢ではなく、亡くなる日から逆算した年齢のことを言うのかもしれないと、そんなことも思うのである。

人生は「讃歌」よりも、「愛惜」や「哀惜」の歌のほうが人の心を打つ。
ここに人生の実相があるからであり、啄木が歿(ぼっ)して百年以上が過ぎてなお人気なのは、そこに理由があるのだろう。

旧友と久しぶり会うとあれこれ考えさせられる。
どうやら旧友は、自分の写し鏡ということのようである。

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