歳時記

意を通す「逆説的態度」

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 今朝5時半に孫を迎えに行き、松戸市・天真寺の「おあさじ」(朝のお参り)に連れて行った。
 私が雅楽を習っているお寺さんだ。
 孫を連れて行ったことに深い意味はない。
 昨夜、ふと思い立って娘に電話し、
「明朝、寺に連れて行くぞ!」
 と一方的に告げた。
 娘も、言い出したらきかない私の性格は先刻承知。
「ハイハイ」
 と、まさに〝二つ返事〟。
 小二の孫もまた、私に逆らうことの不利益を承知しているはずで、もちろん異論はないはず。
 そんな経緯で出かけた次第。
 面白いもので、孫に振り仮名を振った経本を持たせると、文字を追って読経している。
 意味はわからずとも、読経のリズムに興味をそそられるのだろうか。
 そんな孫を横目で見ながら、宗教や道徳は、理屈抜きで小さいうちから教育すべきだと、つくづく思った。
「教える」のだはなく「親しませる」のだ。
 何事もそうだが、教えようとするから逃げる。
 そうではなく、
「教えてなんかやらないよ」
 という態度で臨めば、今度は子供のほうから興味を持って寄ってくるのだ。
 道場でもそうだ。
 新しく入門してくる幼児や小学校低学年のなかには、稽古の輪に入ることを拒否する子がいる。
 付き添って来た母親は、
「ほら、やりなさい」
 と、なだめたり、叱ったりするが、そうすればするほど子供は拒否する。
 こんなとき、私は子供に言うのだ。
「稽古しなくていいから、そこに座っていなさい。いいか、絶対に稽古しゃダメだぞ」
 こんなことを二、三回繰り返すうち、稽古の輪に入っていこうとし始めるので、もうひと押し。
「こらッ、見るだけ! 稽古しちゃダメだ!」
 すると子供は、一緒に稽古したくなってムズムズしてくる。
 そこを見計らって、
「じゃ、稽古していい。だけど、ちょっとだけだぞ」
 こうして、これまで何人もの子供を稽古の輪に取り込んできた。
 自分の意を通そうとするなら「通そうとしないこと」。
 意を通す逆説である。
 

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