昨日、運転していて、前方の横断歩道を渡っている人に気づかなかった。
もちろんすぐに気づいて停止したが、なぜその人の渡り始めに気がつかなかったのか。
原稿のことで考え事をしていたからだ。
つまり、目を開けていても、「見えていない」ということになる。
「見ている」と「見えている」は、まったくちがうというこに気がついた。
逆説的に言えば、他の人には「見えないもの」が、自分には「見える」という理屈も成り立つし、万人に「見えるもの」が、自分だけ「見えない」ということがあるはずだ。
認識は脳がする以上、認識にちがいが出て当然だろう。
「存在」と「非存在」は一如であるとするなら、オカルト的なことも成立するのではないか。
なんだかんだ考えながら運転していると、
「ちょっと、なに考えているのよ! クルマがフラついているわよ」
愚妻の一喝で我に返った。
私は「一瞬の集中力」にはいささかの自信があり、集中しはじめると他のことはすべて「認識外」になるのだ。
プラスに作用することもあればその逆もあり、集中力散漫も危険だが、集中のし過ぎも危険ということ。
つまり、どちらにも偏(かたよ)るべからず
不遜ながら、「中道」を説いたお釈迦さんはたいした人だと、改めて思うのである。