昨日のことだ。
必要があって、「胆のうの切除」がいつだったか記憶をさぐるが、これがちっとも思い出せない。
愚妻は3年前ではないかと言う。
念のため手帳を調べるてみる、何と2021年9月11日ではないか。
実に5年前。
4泊5日の入院になっている。
「手術は日帰りですねよ」
医者にそう言って、
「そんな簡単じゃありません」
あきれられたことを、昨日のように思いだした。
さてさて、この「速(すみ)やかに過ぎ去る人生」をどう考えるか。
かつて友人が70歳になったとき、
「寝るのがもったいないんだ」
と言った。
あっという間の人生。
残り時間を考えると、
「もったいなくて寝てなんかいられない」
と言うわけだ。
(なるほどなァ)
と、その時は感心したものだが、最近は違う。
「あっという間に過ぎ去ってくれるのだから、人生は何とありがたいことか」
そう思うのだ。
速やかに過ぎ去る人生を惜しんで日々を頑張るか、速やかに過ぎ去るがゆえに流れに身をまかせてノンキに生きるか。
私は後者。
ノンキであるべきだと最近は思うのである。
胆のう切除から、あっという間に5年。
この調子でこれから先の5年もあっという間に過ぎ去り、その先はお浄土に行って仏になる(たぶん)。
ありがたいことではないか。
お釈迦さんは入滅に際して、
「諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ」
と、おっしゃった。
最後の言葉であるとして知られるが、「諸行は滅びゆく」はいいとしても、
「怠ることなく努めよ」
とは、何とも罪な言葉を残したものではないか。
「諸行は滅びゆく。ノンキに暮らせ」
そう言い残してくれれば、万人はもっと幸せな人生を送ることができるのではないかと、「不肖の仏弟子」にしてバチ当たりの私は思うのである。
その昔、詩吟を習っていたとき、私のお気に入りで、いまも時々吟ずるのが、近世儒学の祖とされる藤原惺窩が読んだ次の『山居(さんきょ)』だ。
青山(せいざん)高く聳(そび)ゆ 白雲の辺(ほとり)
仄(ほの)かに樵歌(しょうか)を聴いて 世縁(せいえん)を忘る
意足りて求めず 糸竹(しちく)の楽しみを
幽禽(ゆうきん)睡(ねむ)りは熟す 碧巌(へきがん)の前
意味は、
「樹木の青々と茂った山が、白雲のあたりに高々とそびえている。それを眼前にしながら、かすかに聞こえてくる樵(きこり)の歌を聞いていると、もう俗世間のわずらわしいつながりなど、すっかり忘れてしまう。心はじゅうぶんに満ち足りている。別に管弦の楽しみなど必要とせず、静寂の地に棲む鳥たちも満足して、碧(あお)い苔(こけ)の生えた岩の前で、ひっそりとよく睡っているようだ。いまの私のように」
こういう生き方にあこがれるのは、現実がそうなっていないということの証なのか。
そうと気づけば、長くもない人生。
「諸行は滅びゆく。ノンキに暮らせ」
と、お釈迦さんに逆らって生きてみようかと思うのである。