歳時記

偶然を「縁」と考える

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 昨日は、小生の誕生日。
 67回目となれば、さして感慨もなし。
 愚妻も同様のようで、子供たちはプレゼントをくれたが、愚妻は「おめでとう」の「お」の字も口にしない。
「なぜ、言わぬ」
 癪なので愚妻を叱責すると、
「言って欲しいの?」
 質問で切り返してくる。
「バカ者。言って欲しわけではない」
「でしょう。だから言わないのよ」
 ああ言えばこう言うで、夫婦の論戦は頭の体操にはなっても、不毛であることに今さらながら気づくのだ。
 そんなこともあり、誕生日ということで気分一新のため、昨朝は朝6時前に自宅を出て、築地本願寺の晨朝にお参りした。
 書いてみたい仏教テーマがあり、何かヒントがあるのではないかという思いもあった。
 妙想飛来が私の信条なので、本堂で一緒に読経していたら何か良い切り口が浮かぶのではいかと期待したが、何にもなし。
 ところが、たまたまこの朝、知人が常例布教で出講しており、お茶を飲みながら雑談していたときのこと。
 このあとの法話会で何を話すのか問うたところが、まさに今、私が書いてみたいと思っているテーマと同じだったのである。
 こういうのを縁というのだろう。
 いろいろアドバイスを受け、参考になったと同時に、誕生日に思い立ってお参りしただけなのに、こうした縁に出遇ったことに意を強くした次第。
 日々起こる偶然を「縁」として前向きにとらえることで、人生はいかようにも変わっていくのではないかと、帰途のクルマの中で思うことであった。

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