歳時記

「孤独」ということ

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 昨日は、兵庫県西宮市で講演。
 建設大手・新井組主催「安全推進大会」の第2部として登壇した。
 場所は、西宮市立勤労会館ホール。
 300人以上の方々にご参加いただき、ありがたいことだった。
 これは常々思っていることだが、講演というのは実に難しい。
 私は会話本も書いており、会話は何とかなると自負している。
 週刊誌記者当時、数え切れないほどインタビューしてきた経験があるからだ。
 だが、「会話」と「講演」は違う。
 会話は「言葉のキャッチボール」であるに対して、講演は言葉をこちらから一方的に投げるのみ。
「投げて、受けて、投げて」という言葉の応酬がない。
 要するに、ひとり相撲。
 これが50人程度のセミナーであれば、聞き手の反応がダイレクトに伝わってくるので、気持ちの上でキャッチボールが成立する。
 だから話しやすい。
 ところが、大勢を前にした講演は、そうはいかないというわけだ。
 つまり「一人対数百人」という図式は、話し手にとって「孤独」ということなのである。
 そんなこともあって、帰途の新幹線の中で、「孤独」ということを考えた。
 結論は、孤独とは「ひとり」という意味ではなく、言葉のキャッチボールができない状態のこと。
 大家族や組織であっても、孤独はあるということになる。
 駅の到着時間を知らせてあったので、愚妻が珍しくクルマで迎えに来ていた。
「どうして最後に降りてくるのよ」
 開口一番、愚妻が言う。
「バカ者。まず、お疲れさまと言うべきではないか」
「疲れているのはわかっているわよ」
「わかっていても、口に出すのが愛情というものだ」
 わが家は「ヤクザ式」で、何かというと言葉の揚げ足取りで勝負し、自分が優位に立とうとする。
 だが、考えてみれば、それだけ「言葉のキャッボール」が多いということでもある。
 となれば、私は孤独ではないということになる。
 愚妻に感謝すべきかどうか、これは難しい問題なのだ。

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