歳時記

「オメデトウ」という言葉

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 今朝は、築地本願寺にお参りしてきた。
 お参りはともかく、友人で、若い僧侶のT君といろいろ話もあり、築地で待ち合わせたという次第。
 私も年齢からして、そろそろ僧侶活動に本腰を入れなくてはと思いつつ、日々の仕事に追われて、ままならないでいる。
 だが、そうは言ってもいられないので、一歩を踏み出さなければならない。
 T君は僧侶としては駆け出しだが、彼の話は刺激になり、意を強くした。
 人生、何歳になってもチャレンジ。
 燃え尽きるまでチャレンジである。
 いま卒業式のシーズンだ。
 来月は入学式だ。
 道場の子供たちを見ていて、「入学」と「卒業」と、どっちがお目出たいのか、ふと考えてしまう。
 愚妻に問いかけると、
「どっちもメデタイのよ」
 と、浅学そのままに、ざっくりとした言い方をする。
 入学は「誕生」、卒業は「往生(死去)」と、私は置き換えて考えてしまう。
 浄土真宗は、「死」を「往生素懐(そかい)を遂げる」と受け取る。
「現世を去って、極楽浄土に生まれたいという平素からの願いが果たされた」
 というわけだ。
 だから、お目出たい。
 仏教は、「生」を「苦」と説く。
 となれば「誕生」は果たしてお目出たいのか。
 こう考えると、オギャと生まれたら、
「このたびはご愁傷様でした」
 亡くなったら、
「このたびはお目出とうこざいました」
 こう言うのが正しいということになる。
 愚妻に告げると、
「そんなこと言ってたら、人に嫌われるわよ」
 これも、ざっくりとした言い方をするのだ。
「オメデトウ」
 とは、いったい何なのか。
 しばし考えつつ、
「ヘタな考え、休むに似たり」
 そんな言葉が、私の脳裡をよぎるのだ。

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