歳時記

「定年」ということに思う

投稿日:

 60歳で、とりあえず定年。
 定年延長雇用が3年間ほどあって63歳で完全リタイア、というのが世間一般の人生スケジュールのようである。
 となれば、
「長いあいだご苦労さま」
 と、家族が労をねぎらうのは63歳ということになる。
 私は12月で63歳になる。
 あと2ヶ月で「長いあいだご苦労さま」である。
 愚妻がそのことを失念しているようなので、今日の昼、スターバックスでお茶を飲んだときに告げると、
「バカみたい。あなたに定年なんかあるわけないじゃないの」
 あきれたように言ってから、
「遊びたいだけ遊び、好き勝手に生きてきて、何が定年よ。定年になりたいのは私のほうだわよ」
 思わず出たホンネなのだろう。
 オクターブの高い声に、周囲の人が顔をあげて私たちを見る。
「バカもの!」
 と叱責したいところだが、「定年」をテーマに論戦になったのではカッコ悪い。
 私はただ、押し黙るばかりであった。
 それにしても、最近つらつら考えるに、定年とは、
「一定の年齢になったため、いま勤めていた会社を辞める」
 ということに過ぎないのではないか。
「会社を辞める」は「仕事を辞める」ということではない。
 当たり前のことだか、ここを勘違いするから、「定年」を「社会からのリタイヤ」というふうに受け取ってしまう。
「仕事」とは「社会と関わる」ことだ。
 収入の多寡ではなく、仕事を通して社会に関わり続ける生き方を、
「社会的に生きている」
 というのではないだろうか。
 したがって「定年」は決して「一丁あがり」ではない。
 そう考えると、愚妻の言い分を認めるのは癪(しゃく)ではあるが、
「あなたに定年なんかあるわけないじゃないの」
 という生き方には意味がある。
 それじゃ、このまま「現役」であり続けるか。
「ご苦労さま」なんてねぎらいはクソくらえ。
 私だって、たまには前向きに人生を考えることもあるのだ。

-歳時記

Copyright© 日日是耕日 , 2024 All Rights Reserved.