歳時記

「満たされる」という不幸

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 能登の温泉に2泊ほどして、いま帰宅。
 露天風呂でのんびりしたが、温泉好きの愚妻が、今回は風呂に入る回数がいつもより少なく、こんなことを言う。
「家の近くに温泉のスーパー銭湯ができたから、温泉地もあまりありがたくないのよねぇ」
 鋭いことを言うではないか。
 満たされることによる「不幸」を、愚妻は温泉に仮託して見事に喝破してみせた。
「煩悩即菩提」という言葉があるが、愚妻の場合は無自覚に「本音即真理」になっているのだ。
 私が「満たされることによる不幸」に思いが至ったのは、先日、西日本新聞から「原発再稼働の説明会」についてコメントを求められ、私なりに原発について考えてみたからだろう。
 原発は経済成長に寄与したが、経済的に満たされていくことに反比例して、私たちは〝不幸〟になっているのではないか。
 経済成長をし、どんどん便利なった結果、私たちは「ありがたみ」という大事な感性を次第に失いつつあるのだろう。
 近所に温泉スーパー銭湯ができなければ、愚妻は能登の温泉に感激したはずだ。
 満たされないこと、足りないことこそ〝幸せのタネ〟なのかもしれない。
 この話を愚妻にすると、
「私、不幸になってもいいから、満たされるほうがいいわ」
 バチ当たりのことを平気で口にする。
 だが、よくよく考えてみると、愚妻のこの言葉は「本音即真理」のような気がしないでもない。
 さらに考えをめぐらせれば、真理とは煩悩のことではないか。
 すなわち「本音即煩悩」であり、このことを腑に落ちて知るのが浄土真宗ということになる。
 愚妻の本音で、私はいい勉強をさせてもらった。
 思わず、愚妻に合掌である。

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