歳時記

「行雲流水」を考える

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 高校生のころ、『行雲流水』という言葉に惹(ひか)かれた。
 当時、坂口安吾の同名の小説を読み、内容は忘れたが、「行雲流水」という言葉が強烈に印象に残った。
 長じて、『行雲流水』が禅語であることを知る。
 意味は、
「空を漂う雲のように、川を流れ行く水のように、いっさいものにとらわれることなく自由に生きていく」
 というもので、ますます気に入り、いまも気にいっていて、そうありたいと念じている。
 昨夜、愚妻にそのことを話し、
「来年こそは〝行雲流水〟で行こうと思う」
 と言うと、
「それ以上、〝行雲流水〟をやってどうするの!」
 バチ当たりが、人生の深淵を知らず、マジに怒っていた。
『行雲流水』とは、解脱(げだつ)の境地を言うのではない。
「自由に生きようと願って、それを果たせない浮き世の現実にあってなお、しかと生き抜いていきなさい」
 と諭す〝逆説〟であると、私は解釈する。
「であるから」
 と愚妻に諭すのだ。
「私が〝行雲流水〟で生きていこうと言うのは、なまけるという意味ではなく、来年も頑張るということなのだ」
「そうかしら」
 口の端をゆがめて、
「来年も、と言ったら、今年も頑張ったみたいに聞こえるじゃないの。〝来年こそは〟の間違いじゃないの?」
 愚妻のへらず口も、年内あと2日。
 よくぞ1年、私は耐えたものである。

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