歳時記

紅葉に「コトの本質」を考えた

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 一昨日のことだ。
 自宅から数分の公園のそばをクルマで通っていて、
「おっ!」
 と感嘆した。
 樹木があざやかに紅葉していたのである。
 目と鼻の先にありながら、道場と逆方向にあるため、公園を見ることがめったになかったのだ。
 紅葉が見たくて、先月はわざわざ鬼怒川に行き、房総山間部にモミジを訪ねたというのに、灯台もと暗し。自宅から数分先に見事な紅葉があったとは、我ながら不覚の極みであった。
 ところが、見に行かないのである。
 日曜日は快晴であったにもかかわらず、公園に行く気は起こらず、昼飯を食いに逆方向の焼肉店へ行った。
 要するに、公園が近すぎて、
(行くぞ!)
 というワクワク感が起こらないのである。
 そう言えば、私はコスモスが好きで、女房にやかましく言ってコスモスを鉢に植えさせたが、ついぞ見た記憶がない。そのくせ、クルマに乗って、遠くまでコスモス見物に出かけるのである。
 どうやら私は、花や紅葉を無意識の口実としながら、「見に行く」という〝行為〟を楽しんでいるのではあるまいか。
 あるいは旅行が楽しいのは、観光ではなく、「自宅という日常から離れる」という〝行為〟そのものにあるのではあるまいか。
 そんな思いで人生を見渡せば、コトの本質が、少しだけわかるような気がする。
 高級レストランで食事するのは、おいしいということよりも、「高級店に行く」ということが楽しいのではないか。
 高級車を所有するというのは、乗り心地のよさよりも、「高級車に乗る」ということに満足感があるのではないか。
 こうしてコトの本質を考えていくと、自分を含め、人間の滑稽さに思わず笑ってしまうのである。
 そしてコトの本質について考え、納得すると、
(なんだ、くだらねぇことに執着していたな)
 という思いがしてきて、ちょっぴり気が楽になるのである。

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