歳時記

守破離をもって「我が知識」となす

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《學文無主等痴人》――「文(ぶん)を学びて主(しゅ)無ければ痴人に等し」と読む。
『一声(いっせい)の仁』(西郷隆盛)にある一節だ。
 意味は、
「書物をどんなに学んでも、自己の考えを持たねば愚か者と変わりない」
 つまり、〝知識の受け売り〟を厳に戒めたものだが、世間には何と〝痴人〟の多いことか。
「だから、アメリカ経済学者のA教授によれば、サブプライム問題の本質というのは……」
 雑誌や書籍で読みかじった知識を振りまわして相手をやりこめようとする。
「キミはそうは言うが、本来、政治とは歴史的に考察して……」
 資料を引用してオーソライズする。
 こういう人たちは、西郷隆盛に言わせば、みんな〝痴人〟ということになる。
 かく言う私も、仏教について勉強しているが、結局、受け売りである。
「諸行無常、諸法無我。仏教の本質は……」
 と、エラそうなことを言っても、それは所詮、書物に書かれていることの口移しである。
 そう思うと、
(わしは〝痴人〟か)
 とガッカリで、勉強するのがイヤになったが、ふと「守・破・離」という言葉がよぎって、
(なるほど!)
 と合点がいった。
 つまり西郷隆盛は、
「《守》で終わってはだめだ」
 ということを諭しているのではないか。
 書物で知識を得(守)、その知識を経験と人生観で解体し(破)、再構築(離)をもって「我が知識」となる――そう言っているのだ。
(そうか。よし、頑張って勉強するぞ!)
 と奮起しつつ、
(しかし、仏法をマスターして再構築したなら、わしはお釈迦様と同レベルになるではないか?)
 そんな思いがして、そのことを女房に告げると、
「あら、お釈迦様って、そんな程度だったの?」
 どこまでも、バチ当たりなことを言うのだ。

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