歳時記

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 館山の健康ランド。
 露天風呂の温泉に浸かって手足を伸ばし、庭の木々を眺めると、モミジが真っ赤に紅葉していた。
(いいねぇ)
 私はモミジが大好きで、すっかりいい気分になったのだが、ふと、
(あれ? モミジの紅葉は秋じゃないのか?)
 気になり、露天風呂から出てプレートの説明文を読むと、このモミジはノムラモミジで、紅葉は春とあった。
 恥ずかしながら、モミジが春に紅葉することを、このとき初めて知ったのである。
 私は広島県呉市で生まれ育ち、モミジで知られる宮島(厳島)には、子供のころから遠足などでよく行った。
 秋はモミジの紅葉が美しく、「安芸(あき)の宮島」と大人たちが呼ぶのを聞いて、てっきり「秋の宮島」だと子供心に思ったものだった。
 その思い込みがいまだに尾を引いていて、「モミジは秋」と潜在意識に刷り込まれているのだろう。
 そう納得し、露天の湯船からノムラモミジの紅葉を堪能しつつ、
《裏を見せ、表を見せて、散るモミジ》
 という良寛の歌を思い浮かべた。
 この歌は、良寛がガンに冒され、永別の近いことを知った貞心尼が、
《いき死にの さかひはなれて すむ身にも さらぬわかれの あるぞかなしき》
 と詠んだ歌に応えたもので、
「そんなに悲しむことはない。生きている自分も、死ぬる自分も、同じ自分ではないか。それなのに、生を願って死を厭(いと)うのは、人間の驕りというものだ。もみじを見るがいい。表を美とせず、裏を醜(しゅう)とせず、そんなことにはいっさい頓着しないで、はらはらと散っていくではないか」
 そう諭すのである。
 余命いくばくもない良寛が、表裏の美醜を超えて静かに舞い落ちるモミジに、己(おのれ)の生死(しょうじ)重ね合わせたものだが、このことから転じて、
「背伸びすることなく、また卑下することなく、裏も表もさらけ出して恬淡と生きていけ」
 と私は読み解いていた。
 だが、
(良寛は、本当にそう諭しているのだろうか?)
 という思いが唐突にしてきたのである。
 人間には、拭いきれない煩悩がある。
 背伸びであり、卑下であり、見栄である。
「それでいいのだ」
 と良寛は言っているのではないのか?
 煩悩具足の凡夫たるを自覚し、救いがたい人間であることを肝に銘じ、すべてを承知してなお、はらはらと散っていけ――そう諭しているのではないと思ったのである。
 表裏(ひょうり)のない人間などいない。
 それは、決して醜いことでも恥ずべきことでもない。
 恥ずべきは、表裏があるにもかかわらず、それを頬っかむりして、
《裏を見せ、表を見せて、散るモミジ》
 と、したり顔で嘯(うそぶ)くことではないだろうか。
 そんな思いで色づいたモミジを眺めていると、モミジが笑顔で話しかけてくるような気がするのだった。

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