歳時記

「人間関係」は「食べ物」と同義語である

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 空手道場をやっていて、何がガッカリするかというと、弟子が辞めることである。
 特に、目をかけ、手塩にかけた(つもり)の少年少女に辞められるのは、複雑な心境である。
 正直、裏切られたような気分になったりもする。
 だが最近は、平気になった。
 いや、逆に「頑張れよ」と心で拍手して送り出すようになった。
 人間は年齢に関係なく、人それぞれに事情もあれば、人生観も違う。
 夢もあれば、希望もある。
 私が一所懸命に教えることと、相手の人生はイクオールでもなければ、正比例するのでもない。
 むしろ、人生のある時期、その子のために、その人のために一所懸命教えたという、そのことが、私にとって財産なのだと思うようになったのである。
 で、先日のこと。
 知人が、
「面倒を見た人間から裏切られた」
 と歯ぎしりしていた。
 私は「怒るのは間違いだ」と言って、知人に次のような話をした。
 人間関係というのは、いわば〝食べ物〟である。
 人と知り合い、面倒を見て、あるいは面倒を見られ、やがて別れる。
「面倒見たのに」
 と怒ることもあれば、
「後足で砂をかけていった」
 と、罵(ののし)られることもあるだろう。
 だが、繰り返すように「人間関係」は〝食べ物〟なのだ。
 面倒を見るのも、見られるのも、あるいは対等につき合うのも、すべて経験であり、自己を向上させる栄養分(食べ物)なのだ。
 そして栄養分は、摂取したら排泄されていく。
 どんなおいしい料理も、いつまでも胃袋にとどめておくことができないのと同様、人間関係も排泄されていくのである。
 出会って、そして別れていくのが人生なのだ。
 大事なことは人間関係から何を学ぶか。
 この一点なのである。
 

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