歳時記

「やろうと思えばいつでもやれる」の錯覚

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 畑が近くに〝引っ越し〟てきたからというもの、農作業にとんとご無沙汰である。
 87歳の老爺(ろうや)は、電動自転車に颯爽とまたがって畑へ出かけている。
 先日はジャガイモを植えたそうだ。
 3歳になる曾孫(ひまご)の女児が、遊びに来ては、トマトが大好きだという。
 そのせいであろう。
 老爺は今年こそうまいトマトを作るのだと張り切り、拙宅の庭にある植木の支柱を、鼻歌まじりで何本も引っこ抜いて用意していた。
 植木は愚妻が丹精をこめ、成長を心待ちにしているものだ。
 その支柱を鼻歌まじりで次から次へと引っこ抜いていく。
 わしゃ、どうなっても知らんぞ。
 ま、それはともかく、「いつでも行ける」は「いつでも行けない」であることを改めて思い知らされている。
 畑が遠いときは
「行かなきゃ」
「いつ行くか」
 という思いで予定に組み込んでいたが、「いつでも行ける」となれば、手帳にニラめっ子することはなく、結局、忙しさにかまけてしまうというわけである。
 畑に限らず、
「やろうと思えば、いつでもやれる」
 というのは、おおいなる勘違いだ。
「やろうと思えば」という前提がくせ者で、「いつでもやれる環境と条件」にある人間は、いつでもやれるがゆえに、やろうと思わない。
 やろうと思わないのだから、「やろうと思えば」という前提は成立しないことになり、結局、やれないまま終わってしまうということになる。
 こうしてみると、
「やれるときに、やれることを」
 というのは、意外に難しいことがわかる。
 午後、畑のことを思い浮かべながら、そんなことを考えていると、愚妻が首をひねりながら、道場内の私の仕事部屋にやってきた。
「とうした?」
「それが、庭の植木の支柱が1本もなくなってるんだけど」
 私は言葉に詰まるばかりであった。

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