歳時記

主役をめざす人、脇役を喜ぶ人

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 足の遅い人間がオリンピックの短距離ランナーを夢見るのは、不幸なことだ。
「夢を見る」のが不幸なのではない。
 夢を見た結果、自分の非才に落ち込むとしたら、
「それは不幸ではないのか」
 と、私は言うのだ。
 このことから、
「分不相応な願望は苦しみの元になる」
 と最近考えるようになった。
 大志を抱いて賞賛されるのは少年だけで、ある年齢に達したら、自分の器を知り、その器に応じた人生を歩むことが幸せだと思うだ。
 ところが、「自分の器」を知るのは難事だ。
 何が難しいのかと言えば、「自分の器の大きさ」を知ることではなく、
「それが自分の器なのだ」
 と納得することが、難しいのである。
 たとえば、同じ会社に勤めるなら、ヒラより社長になりたいのが人情だ。
 だが、誰もが社長になれるわけでもない。
「オレの器はヒラ社員だ」
 と自分に言い聞かせるには、抵抗と葛藤があるだろう。
 しかし、それが自分の器であると心から納得し、全力投球したなら、その人の人生は幸せに違いない。
 なぜなら〝羨(うらや)みの心〟に苦しめられないですむからだ。
 充実した日々とは、〝羨みの心〟と対極にあり、これが人生の幸せというものではないだろうか。
 役者は、誰もが主役になりたいと思う。
 だが、誰もが主役になれるわけではない。
 脇役として主役を羨むか、脇役に徹するか。
 ここで人生の充実度が違ってくる。
 名脇役と呼ばれる役者は、脇役という「自分の器」に徹することによって役者としての地歩を占め、ときに主役をも凌駕するのである。
 主役になることだけを夢見て鬱々たる日々を送る役者と、どっちが幸せだろうか。
 人間の器や能力は、人体の諸器官と同じだと、私は考える。
 手は手の、足は足の、爪は爪の、それぞれ果たすべき役割というものがある。
 それなのに、たとえば〝足の裏〟が、
「毎日、踏みつけられて嫌だ」
 と不満を口にするのは、愚の骨頂なのだ。
 なぜなら〝足の裏〟は、踏みつけられることによって存在価値があるからだ。
 人間もそれと同じで、それぞれ為(な)すべき本分(器/役割)を持って、この世に生まれてきている。
〝足の裏〟が〝頭〟になりたい羨むのは、実に愚かなことなのである。

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