歳時記

「願望」という名の「我欲」に要注意

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 私が仕事部屋に借りている安房鴨川市に「曽呂(そろ)温泉」というのがある。
 温泉と言っても、山あいに民家のような旅館が1軒あるだけで、平日ともなれば、客はせいぜい数人といったところか。温泉は茶褐色のコーヒー色。見るからに「ザ・温泉」といった気分で、浴槽は狭いが、それでも日帰り入浴に行って手足を長々と伸ばすと、風呂好きの私にとってはこの世の天国なのである。
 この温泉に私が通い始めたのは、風呂好きであることのほかに、もう1つ理由がある。
 鴨川市に仕事部屋を借りたのは、私が僧侶になりたいと本気で念じた1年余前のことだ。
 鴨川は温泉地なので、
(どこか、いい温泉か健康ランドでもないかな)
 と思いながら近郊をクルマで走っていて、道ばたに「曽呂温泉」という看板を偶然目にしたとき、
(これだ!)
 と飛び上がる思いがした。
「曽呂」という字に〝にんべん〟をつければ、「僧侶」という字になるではないか。
(オレはきっと坊サンになる)
 そんな確信を抱きつつ、何やら因縁めいたものを感じたのだった。
 それから1年が経ち、私は浄土真宗本願寺派の僧籍を得た。
 そして、いまこうして曽呂温泉の湯船に浸かりながら、看板を見つけたときの感慨を思い返しているというわけである。
 私は、こうした《予感》というものを大切にする。
 いや《読み》と言うべきかもしれない。
 他人の人生であれ、自分の人生であれ、「たぶん、こうなるんだろうな」と思うとおりになっていく。
 私に特殊能力があるわけではない。
 誰でも《読み》は当たるのだ。冷静に、客観的に、損得を考えずに事象を見ていれば、漠然とではあっても、「行く末」は見えてくる。
 ところが、「こうであればいいな」という願望が《読み》を狂わせる。マルチまがい商法に騙されるのは、その好例ではないか。結婚サギもしかり。投資話もしかり。人間関係もしかり。「こうあればいい」という願望が、冷静な判断力――すなわち《読み》を狂わせてしまうのだ。
《読み》が狂えば、「こんなはずじゃなかった」とガッカリする。ガッカリすれば、不満が残る。不満は人生を暗くする。そうならないためにも、「こうあればいいな」という願望を一度捨てて、自分と周囲を見まわせばいい。自ずと実相が見えてくるはずである。
 願望のない人生なんて、無味乾燥だという人は、「願望」の正体をいま一度考えてみるといいだろう。「願望」とは所詮、「我欲」のことに過ぎないのだ。「こうあって欲しい」という思いを「願望」だの「夢」だのという言葉に置き換えているだけなのだ。そして多くの場合、「願望」(我欲)は、人生という流れに棹さすものなのである。
 ここを知れば、人生はもっと楽になる。
 私はそう思っている。
 

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