周知のように、小沢一郎氏が民主党の新代表になった。
真打ち登場である。
おかげで偽メール事件はどこかにフッ飛び、世間の関心は「小泉純一郎VS小沢一郎」という〝一郎対決〟になった。これで〝小泉劇場〟はさらなる人気を博すことになるだろう。
小泉首相もそこは心得ていて、
「小沢さんは自民党の手の内を知っているからね。手強いね」
とコメントして、〝観客〟を盛り上げている。
〝小泉劇場〟がこのあとどう展開するのか、乞うご期待といったところか。
それはそれとして、政治家を見ていて、つくづくうらやましく思うのは、彼らの前言にとらわれない自由闊達な生き方である。
前言を翻(ひるがえ)し、約束を反故(ほご)にし、
「あれっ? そんなこと言ったっけ」
とケロリとできたなら、人生、もっと楽しいに違いない。
たとえば、小泉首相。
「戦没者に対し、心を込めて経緯と感謝の意誠を捧げたい。個人として終戦記念日に参拝する。なぜ(参拝に)反対されるのかわからない」
と、言い切ったのが首相就任直後のこと。内外から激しい反発もあったが、国政トップのこの断固とした姿勢に、拍手喝采した国民も多かった。
ところが、それからわずか四ヶ月後。
8月15日の終戦記念日が近づいてくると、
「与党三党の方々の意見を虚心坦懐に伺って、熟慮して判断したい」
とトーンダウンし、
「口は一つ、耳は二つありますから」
と、周囲の意見を聞くことの大切さをアピール。
そして、八月十三日。二日前倒しして、小泉首相が靖国神社に〝電撃参拝〟したのは周知のとおり。
早い話が、前言を翻し、約束を反故にしたのである。
我々なら、恥ずかしくて街を歩けないが、政治家の政治家たるユエンはここからで、
「私は絶対ぶれない。靖国でぶれたから、総理はぶれるんじゃないかという人がいるが、靖国と構造改革はどっちが大事か。それは当然、構造改革のほうが大事だ」
と堂々たる弁であった。
だが、よくよく考えてみれば、
「靖国の件ではウソついちゃったけど、構造改革はホントにやるよ。だってオレ、ウソつきじゃないから」
という、矛盾した〝言い訳〟を、「靖国と構造改革はどっちが大事か」というレトリックでうまくごまかしたのである。
ここで、私たちが学ぶべきは、世間というのは、前言を翻したこと自体ではなく、その理由に対して、非難もすれば、賛同もするということである。
たとえば、駅まで十キロの道を「歩いていく」と宣言したとする。
ところが、途中で足が痛くなった。車に乗ることにしたが、まさか足が痛いと本当のことを言うわけにはいかない。
そこで、どう言い訳すれば世間は納得するか。
「非常時に鑑(かんが)み、本来なら歩くべき所を、断腸の思いで車に乗ることにしました。足は二本、タイヤは四本。急ぐには車に乗るしかないでしょう」
もっともらしいが、こんな言い訳では、
「そんなこと最初からわかってるじゃねえか」
「歩くの、イヤんなったんだろう」
と、変節を咎められる。
ならば、片足を骨折したことにしたらどうか。
「そりゃ、歩くのは無理だわな」
納得である。
そこまでよく頑張った、と応援である。
これが、良くも悪くも世間なのだ。
前言を翻し、約束を反故にし、
「あれっ? そんなこと言ったっけ」
と、ケロリとして生きていきたいなら、ウソでいいから、周囲の人が「そりゃ、そうだ」と納得する理由をくっつけること。恥じることはない。「先生」と呼ばれ、我ら国民が信任する政治家は、そうやって生き抜いているのだ。鉄面皮と言うなかれ。彼らこそ、生き方の達人なのである。
変節を正当化する政治家の「詭弁術」
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