歳時記

煩悩即菩提

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過日、ご葬儀でのこと。

ご主人を亡くされたご高齢の未亡人に、
「いずれお浄土でご主人に再会できますよ」
といったお話しをしたところが、
「私は極楽へ行けますか?」
クルマ椅子から真剣な眼差しで私を見上げながら、そう問いかけられた。

不意をつかれた気分で、
「もちろん行けますよ」
と答え、浄土真宗が説く臨終即往生を口にしたが、火葬場で別れるときだったので、どこまで納得していただいたかわからない。

私など死後のことはさして気にかけないでいるが、お浄土へ必ず往生できるものと思って生きるのと、そうでないのとは、日々の処し方は変わってくるだろう。

ことに年配者にとって、これは本能的な、大きな問題であるとあらためて思った。

で、帰宅して、さっそく愚妻に、
「おい、おまえは極楽へ行けると思っているのか?」
問うてみると、
「行けるに決まっているでしょう」
実にアッケラカンとした返事である。

「なぜ、そう思う」
「そうと決まっているからよ」
「だから、なぜだと問うておる」
「決まっているから決まっているの」

浄土往生に対して微塵の疑いもない。
たいしたものだ。
愚妻は浄土真宗の教義には暗くとも、ひょってして「さとり」の境地に達しているのかもしれない。

板を磨くためにペーパーをかける。
これはザラザラとしたペーパーだからこそ磨けるという逆説でもある。

ザラザラを煩悩とすれば、愚妻は煩悩で自分を磨き切り、さとりの境地に至ったのかもしれない。

なるほど「煩悩即菩提」とは、このことを言っているのかもしれん。

かつて私は『煩悩バンザイ!』という本を書いてはいるが、いまにして煩悩の素晴らしさがわかったような気がするのである。

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