歳時記

「わかったつもり」という錯覚

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 浄土真宗の集中講義に出席し、本日帰ってきた。
  2泊3日で、場所は京都のホテル。
 例年のことだが、講義は朝から夕方までと長丁場のため、クーラーのせいで震えるほどの寒さになる。
 今年もまた、冬に着るフリースを持参。盛夏であることを忘れた3日間であった。
 集中講義は親鸞聖人の和讃がテーマで、講義を聞いていると、
(そうか、なるほど)
 と実によくわかる。
 ところが、いま帰宅してノートとテキストを開いてみると、
(ウーム……)
 よくわからないのである。
 もちろんメモはとってある。
 ただし、講義を聞きながらわかったつもりでいるから、メモは要点だけ。
 要するに〝走り書き〟の断片なのだ。
 何度、読み返しても断片と断片がつながらす、ひたすら唸るばかりであった。
 このとき、「わかる」と「わかったつもり」は似て非なるものであることに気がついた。
 勉強だけではない。
 日々を顧(かえり)みて、いかに「つもり」で生きているかを思い知って愕然とする。
 仕事をしたつもり。
 稽古をしたつもり。
 気をつかったつもり。
 言動だけではない。
 自分は、「まっとうな人間である」というつもりでいるのだ。
 すなわち、「つもり」という《主観》を、あたかも《客観》であるかのように錯覚して生きているである。
 50代も後半になってそんなことに気づくのだから、いかに身勝手な人生を送ってきたことかと、これは《客観的》に見て反省しつつも、
(今回の集中講義で、きっと親鸞聖人がそのことを私に諭してくださったのだろう)
 と、これまた《主観的》に納得するのである。
 

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