歳時記

畑を耕しながら考えた「弱肉強食」

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 今朝、例によって、指南役の親父と女房と三人で畑へ行った。
 原稿が忙しくもあり、昨夜、咳が止まらないと言って親父がボヤいていたので、これ幸いと、
「そりゃ、大変だ。畑は今度にしよう」
 と言ったら、
「なあに、畑に行くのは大丈夫じゃ」
 このときは咳をしないで、キッパリと言い切った。
 現金なものではないか。
 久しぶりの畑なので見てまわると、枯れかけていた豆が何とか育っている。
 スクスク育つ野菜は見ていてワクワクするが、枯れるだろうとあきらめていた野菜が生き返ると、健気(けなげ)で、いとおしくなってくる。
 畑は百坪ほど借りているのだが、その隅っこに水菜がひと株、育っていた。
 植えた場所から離れ、とんでもない場所である。
(勝手なヤツだ)
 と思いながらも、何だかイタズラ小僧を見るような愉快な気分になってきて、収穫するにはしのびなく、そのままにしておいた。
 畑を耕していると、土も、野菜も、草も、すべてが生きているのだということが、少しずつ実感としてわかってくるようになった。
 得度習礼で本願寺西山別院にあがった2年前、境内の草取りをしながら、
「草も生きてるんですよね」
 ポツリと言った年配の同期生の言葉が、いまだに頭の片隅に残っていて、畑の草を引くたびに思い出す。
 命は、命を奪うことでしか成立しない。
 これが是非を超えた真理である以上、植物も、動物も、人間も、弱肉強食でしか生きられないということになる。
 この現実を踏まえて、自分はどう身を処するのか。
 畑を耕しながら、考えさせられることは多いのだ。
 

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