歳時記

「死」が持つ意味を考えた

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 日曜日は、都内の斎場で通夜のお勤めをさせていただいた。
 密葬で、会葬者は二十人ほどだった。
 故人から昨秋、「死んだら頼む」と直接依頼されていたもので、ご遺族にもそのことを言い残されていた。
 学者として社会的立場もあり、密葬としたのは、諸々ご遺族への配慮なのだろう。
 葬儀もお勤めする予定でいたが、前日になって遺族から連絡があり、
「通夜だけをして、葬儀は不要。近親者だけで見送るように」
 といった故人のメモが出てきたそうだ。
 今年に入って、容態がよくないと聞いていた。
 葬儀を依頼された立場としては、いつ連絡が来てもいいようにと、スケジュールにも気を配り、落ち着かない日々だった。
 以前にも、同じ経験をした。
 何事においても、「日時」が決まらないというのは落ち着かないものだが、決まれば決まったで、その日時が刻一刻と迫ってきて、やはり落ち着かないものだ。
 いずれ人間は死んでいく。
 通夜のあと、帰途のクルマのなかで、「余命宣告」ということが、唐突に脳裏をよぎる。
 このところ、取り留めのないことが、次から次へと浮かんでくる。
 肩の力が抜けてきたというのか、物事へのこだわりが少しずつ希薄になってきた自分を意識するのだが、そのせいかもしれない。
 すると不思議なもので、仕事をはじめ、いろんなことに意欲がムクムクとわき起こってくる。
 故人にアドバイスを頂戴しつつ、進めているテーマがある。
 これを何としても書きあげなければならないと、決意を新たにしたところだ。
 人間の死は、残った者に大きな意味を遺すということを、いま噛みしめるのである。
 

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