歳時記

退院して、娑婆にもどる

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 予定どおり退院。
 愚妻と娘が迎えに来た。
「口うるさい男がいなくなって、看護婦さんたちが喜んでいるんじゃないの」
 愚妻が言えば、
「でしょう」
 と娘が受ける。
 文言(もんごん)は違えども、谺(こだま)が返ってくるかのような会話。
 さすが母子である。
 となれば、娘の亭主も私同様、苦労していることだろう。
 健康のありがたさは、健康を失って初めてわかるという。
 健康だけでなく、お金も、境遇も、人間関係もすべて、それを失って初めていかに恵まれていたかがわかる。
 言い替えれば、私たちは失うことでしか、今まで手に何を握っていたのか、気がつけないということではないのか。
 ということは、私たちは「不幸になることでしか、幸せに気づくことができない」ということであり、気づいたときは、幸せはすでに過去のものになっている。
 そう考えると、釈迦の言う「足るを知る」の意味が、いささか違って見えてくる。
 これまで私は、
「あんまり欲張らないで、このへんでよしとするか」
 と、適当なところで手を打つことだと思っていたが、そうではなく、
「あんたは気がつかないだろうけど、実は今で十分にハッピーなんだよ」
 ということを言っているように変わってきたのである。
 失うまで、今の自分が持っているモノに気づけない私たちは、絶対に「足りる」ということはない。
 失って初めて、
「あっ、足りていたんだ!」
 と気づく。
 だから「足るを知る」とは、
「その握った手を開いて、手のなかにあるものを見てみなさい。素晴らしいものをたくさん握っているじゃないか。しかるにあなた方は、手を握ったまま中身を見ようとしないで、もっともっとと欲しがっている」
 そんな諭(さと)しではないかと解釈するわけである。
 道元禅師は、
『放てば手に満てり』
 と喝破した。
 手を執着にたとえたもので、
「手を開けば(執着を捨てれば)、豊かな真理が手に入る」
 という意味だが、これを私は、
『開けば手中(しゅちゅう)に真理あり』
 と言い換える。
「手を開けば、そこには豊かな真理がある」
 という意味で、それぞれ個々人の立場で、「真理」を「幸せ」や「夢」に置き換え、
「開けば手中に幸せあり」
 と言い換えればよい。
 入院中、夜はベッドの灯りが暗いため、仕事も読書もできない。
 それで、あれこれ考える。
 考え過ぎて明け方になり、
「検温です!」
 という看護婦さんの声を夢うつつで聞く。
 そんな入院生活だったが、これはこれで貴重な経験をさせてもらったと思っている。
 

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