『在家仏教』6月号に、形山睡峰師(無相庵菩提禅堂庵主)のこんな言葉がある。
聞き手である金光寿郎氏(元NHKチーフディレクター)との対談で、形山師は車の運転を例に引きながら、こう語ってらっしゃる。
《「おっ、あそこに何か良いものがある」と気づいても横を向くわけにはゆかない、だから上手に運転している人は、全部を正しくキャッチしながら、全部を即座に離している、これを「正受不受」というのですが、何も心に思っていないけど全部の状況がちゃんと残らず入っている、そしてどんな変化にも的確にパッパッと応じて滞ることがない、これがいちばん安全に運転する方法で、いちばん自由なあり方ではないか、このように働いている心を、私は「やわらかな心」と言っているのです。》
私は読みながら、車の運転を「生き方」、周囲の状況を「苦」に置き換えてみた。
嫌なこと、苦しいことは数え切れないほどあるが、車を運転するときに周囲の状況をしっかり認識しているように、その一つひとつから逃げることなく、しっかりと受けとめ、しかし心に留(とど)めることなく瞬時に忘れ去ってしまう。
これこそが、心平穏に生きる秘訣ではないかと思ったのである。
私のことを愚妻は、
「あなたの耳は、何でもかんでも右から左へ抜けて行く」
と言う。
何事も気にしないという意味だが、もちろんホメ言葉ではなく、
「懲りない人間である」
と揶揄(やゆ)しているのだ。
しかし、形山師の言葉を読んで、私はハタと膝を打った。
「なんと私の生き方は〝車の運転〟と同じではないか」
さっそく愚妻にこのことを自慢して告げると、ジロリと私の顔を見て、
「あなたは〝安全運転〟じゃないでしょ」
言われてみると、たしかにそうかもしれない。
私の人生は、暴走とは言わないまでも、多少のスピード運転と蛇行運転ではある。
だが、〝周囲の景色〟から目を背けることなく、一つのこらず目に留めてきた。
それは自慢してもいいと思うのだが、愚妻は聞く耳を持つまい。
「車の運転」という「生き方」
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