4時30分に起床し、ひと風呂浴びて5時30分に道場内の仕事部屋に入る。
最初にやるのが、メダカにエサをやることだ。
ところが、メダカは寝起きのせいか、エサを食べない。
しばらくジッと見ていて、再びエサをパラパラと撒くが、やはり食いが悪い。
イライラする。
腹が減ってはかわいそうと、せっかくエサをやっているのに、それを食べないとは何事か、というわけである。
(ちょっと、エサをやり過ぎたら死ぬからダメよ)
と、私に念を押した愚妻の言葉が脳裏をよぎり、あわててティッシュで水面のエサを回収する。
こんなことを数日繰り返している。
仕事部屋には、鉢に入れた観葉植物がたくさん置いてあるのだが、これも水をやりすぎて、ずいぶん枯らせた。
「何度、いったらわかるのよ。水をやりすぎたら根が枯れるんだから」
と愚妻に、それこそ何度、小言をいわれたことか。
私にしてみれば、植物たちにひもじい思いをさせるのはかわいそうだと、つい思ってしまうのである。
そういえば、ウチの87歳の「釋映芳」爺さんが、駄犬の「マック爺さん」に、しょっちゅうエサを与える。
だからマック爺さんの体重は8キロの超メタボ。
かかりつけ(というのかどうか)、若い獣医さんが、
「ウーム、トイプードルでこの体重は・・・・」
と唸っている。
私も愚妻も、エサを与えすぎないよう映芳爺さんに苦言を呈するが、
「マックが、〝くれ、くれ〟と言うんけん、かわいそうでのう」
と抵抗する。
なんと、私と同じではないか。
かわいそうだからと、メダカにエサ、そして植物に水。
本当にかわいそうだと思うなら、マック爺さんにも、メダカにも、植物にも、エサや水を与えすぎないことだ。
しかるに、私も映芳爺さんも、どうしても与えてしまう。
これはきっと、
「相手のためを思って」
という自己満足なのだろう。
こういうのを〝偽善〟というのではないか。
メダカと観葉植物に、私はそんな自分に気づかさせるのである。
今日は午前10時から佐倉地区保護司会・広報部会の打ち合わせがある。
準備をしながら、
「保護司という仕事が偽善であってはならない」
と自分に言い聞かせるのだ。
やさしさという「偽善」
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