歳時記

僧侶の立場と、道場の神棚

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 私の道場にも神棚があり、稽古の始めと終わりに一同、「神前に礼」をやる。
 これに悩んでいた。
 僧籍にある私が「神前に礼」というのまずのではないか、という思いである。
 だが、そうかといって、神さまを仏さまに取り替え、
「仏前に礼」
 とやるのも、「なんだかなァ」という違和感がある。
 私が得度する前から、神棚はそこにあって「神前に礼」とやっていたのだから、私の勝手な都合で神さまにお引き取り願うのは失礼な気もして、
(どうしたものか)
 と悩んでいたというわけである。
 すると、たまたま『在家仏教』という雑誌を読んでいると、神仏習合について、駒澤大学名誉教授である佐々木宏幹先生のこんな一文が目に止まった。
《神さまが仏さまを守り、仏さまが神様の弱いところを補う。例えば奈良の大仏を造るという一大事業では、宇佐八幡をお迎えして、無事故で大仏が造れますようにと守ってもらう。ですから今でも東大寺の境内には、八幡神が祀られています。》
(なんだ、神棚があってもいいんじゃん)
 まさに〝渡りに船〟。
 神さまだろうが、仏さまだろうが、要は道場でケガなく稽古ができればいいのだ、と神棚の問題は強引に解決したというわけである。
 そんなこともあって、私はいま「曖昧(あいまい)さ」ということについて考えている。
「白か黒? どっちでもいいんじゃないの」
 と、あえて正解を求めない生き方である。
 人生に苦しむのは、人生自体が曖昧であるのに、実生活において曖昧さを認めないからではないだろうか。
 価値観は時代とともに変わる。
 白でも黒でも、どっちでもいいのだ。
「白」か「黒」を決めるのは司法の仕事。
 私たちは「灰色」であって大いに構わないのである。
 だからこの信念にもとずき、僧籍にある私は道場で、
「神前に礼」
 と、大いばりでやるのである。

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