アメリカ16代大統領のリンカーンは、閣僚の人選を顔できめたというエピソードがある。
ウソのようなホントの話だ。
組閣にさいして、側近が、ある人物を閣僚に推薦したところが、リンカーンは、顔が気に入らないという理由で却下したのだ。
「そんな無茶な!」
側近は驚いて、
「顔は生まれつきのものじゃありませんか」
と抗議すると、リンカーンは言った。
「40歳にもなれば、人間は自分の顔には責任をもたねばならない」
今朝、私は風呂に入って鏡で自分の顔を見たとき、リンカーンのこの言葉が脳裏をよぎった。
そして、自問した。
(40歳で顔に責任を持たなければならないなら、還暦を迎える私はどうなんだ?)
まじまじと鏡の顔をのぞきこむ。
歳月が樹木に年輪を刻むように、人間の顔もまた、それぞれの人生が刻まれているはずだ。
ところが、シワはあっても〝人生の年輪〟はどこにもないではないか。
私も人並みには苦労してきたと思っているが、その痕跡がないのである。
しばし考え、
(なるほど)
と合点した。
人間は、苦労が顔に出る人間と、そうでない人間がいるのだ。
そして、我が身の不幸に思い当たった。
私は苦労が顔に出ない人間だから、極楽トンボのように見られてしまうのだ。
これほどの不幸があるだろうか。
顔を履歴書とし、判断したリンカーンは人間を見る眼が甘いと、私は湯船に身体を沈めつつ結論づけたのである。
顔と〝苦労の年輪〟
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