歳時記

女房の脊柱湾曲と「不幸の本質」

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 女房の脊柱が湾曲していた。
 背中が痛いというので病院で看てもらったら、そうと診断された。
 私は打ち合わせで外出していたので、そのことを女房から電話で知らされて、
(それは大変だ!)
 と思ったわけではない。
 私は脊柱管狭窄症があることから、
(ヤバイのは俺だけじゃないぜ)
 と〝仲間〟ができた気分だったのである。
 もちろん可哀相だとは思うが、生活に支障があるわけでもないし、
「体重を減らさなければ腰に負担がくるゾ」
 という〝警告〟を、私は10年以上も前から発している。
 警告を鼻で笑っていた罰であり、これを機に健康について真剣に考えることになれば、災い転じてなんとやら、であろう。
 人間は、不幸な状況にあるとき、〝仲間〟ができると安堵する。
 たとえば1万円を落としてガッカリしているとき、友人が、
「俺、1万円落としたんだ」
 と、落胆する顔を見れば、何だか救われたような気分になる。
 自分が1万円を落としたという事実は変わらないのに、なぜ気持ちが救われるように感じるのか。
 それは、不幸に見舞われ、落胆したり苦しんだりする本質は、不幸そのものではなく、
(なぜ自分だけが、こんな不幸にあわなければならないのか)
 という、〝自分だけが〟にあるからだろうと思っている。
 だから、同じように不幸な目にあう人間が出てくると、〝自分だけ〟ではなくなる。「同病相憐れむ」で、気持ちが少しでも救われるのは、そういうことなのだろう。
 ついでながら、ハッピーなときは、逆だ。
 1万円を拾って、心浮き浮きしているときに、友人が、
「俺も拾ったぜ」
 と喜色を浮かべて言うと、何となく面白くない。
 まして、
「俺が拾ったのは2万円だぜ!」
 と自慢されれば、1万円を拾っておきながら、何だか自分が損をしたような気分になる。
 不幸なときは「自分だけが」という思いに苦しみ、ハッピーなときは、「みんなも一緒」という思いに不満を抱くというわけである。
 電話口の向こうで、女房が気落ちした声で続けている。
「それで、腰のコルセットをつくることになったのよ」
「そうか、それは大変だな。で、コルセットをつくる費用は定額なのか、それとも面積に応じて加算されていくのか?」
 一瞬の沈黙があって、
「ちょっと、どういう意味なのよ!」
 脊柱が湾曲したくらいで、落ち込むようなタマではないのである。

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