歳時記

優位に立つ「我田引水法」

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かつて、イケイケで鳴らした若手総会屋が、こんな話をしてくれたことがある。
「雑巾に柄(え)をつけりゃ、立派なモップになる。これが私の仕事のやり方ですよ」
 つまり雑巾という「ネタ」に「理屈」という柄をつければ、もっともらしい「意見」になるということである。
 たとえば、頻繁(ひんぱん)に海外出張している社長に対しては、
「この非常時に会社を留守にして何事か!」
 と噛みつく。
 逆に、海外出張がまったくなければ、
「この非常時に会社に引きこもっていていいのか!」
 と噛みつく。
 柄の付け方によって解釈はどうにでもなるということで、この手法を「我田引水法」と私は呼んでいる。
 たとえば徳川家康の、
《人生は、重き荷を背負いて、遠き道を行くがごとし》
 という箴言をどう解釈するか。
「あの家康ですら苦労しているんだ。人間、同じなんだな」
 と肯定的にとらえるか、
「富も権力も手に入れりゃ、荷物も重くなるさ。苦労するのは当たり前。自業自得だろ」
 と否定的にとらえるか。
 どう理屈をつけるかによって、解釈は正反対になる。
 すなわち、何事も理屈と解釈次第で「我田引水」になる、ということなのである。
「怠けてばかりで、ちっとも書かないわね」
 女房が嫌みを言えば、
「バカ者。量より質。それがまた量につながっていくんだ。違うか?」
「……」
「オナラするのはやめてよ」
 女房が顔をしかめれば、
「おまえの前だからできるんじゃないか」
 何だって応用がきくのだ。
 釈迦は入滅に際して、
《自灯明、法灯明》
 という言葉を弟子に残した。
「法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ」
 と言う意味で、法とは仏法のことで普遍の真理を言う。
 つまり「解釈次第」ということがあってはならないということだが、私たちは「法灯明」を無視し、自分に都合よく「自灯明」だけをよりどころにして生きている。
 オナラにさえ理屈をつけるのだ。
 なるほど凡夫は、救い難ものではないか。
 

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