歳時記

叱責は〝晴天の霹靂〟をもって極意とする

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 私は説教をするのが好きではない。
 保護司をやり、空手道場をやっているので、説教する機会は毎日のようにあるのだが、私は、よほどのことがなければ説教はしない。
 理由は簡単だ。
 神妙に聞いてはいるが、それはポーズ。
「わかったか!」
「オッス!」
「何がわかったんだ」
「……?」
 まっ、こんな調子である。
 だから説教は、する側の自己満足に過ぎず、ことに多人数にする説教は、さして意味がないのである。
 お釈迦様の教えに「聖不煩文(しょうふはんもん)」というのがある。
《聖(しょう)は文(もん)を煩(わずら)わしくせず》
 と読む。
 説教は簡潔明瞭で、くどくど言うな――というのが、この教えの意味だ。
 くどくど説教したのでは、そのうち、
(ウルセーな、だから何なんだよ)
 と、聞くほうに反発心が生まれる。それでは説教の意味はなくなってしまう――と、お釈迦様は諭しているのである。
 私の知人で、某食品会社の営業部長氏は、説教魔で有名だ。
 部下でもない私に、
「キミね、やっぱり、そういう態度はよくないと思うんだよね」
 酒席でも説教をし始める。
「説教なら会社でやってよ。オレ、部下じゃないんだから」
 茶々を入れると、
「それそれ、それがいかんのだ」
 と、火に油。説教の口実を与えることになる。
 そうかといって、神妙に聞いていると、調子づいて、
「しかるに、古今東西の歴史を見れば……」
 説教も次第にグローバルになっていく。
 部下たちは、うんざりしながらも馴れたもので、誰も話など聞いちゃいない。口を挟むと〝火に油〟だから、ひたすら頭を垂れつつ、心の中では、
(このあと、どこへ飲みに行こうかな)
 と、次の予定を立てながら、嵐が通り過ぎるのを待つ。
 説教の途中、節目節目で、
「わかったのか!」
 と怒鳴るのが部長氏の定番だから、そのときだけ、
「はい」
 と、神妙に頷いてみせればいいのである。
 これでは、説教の意味はない。
 いや、意味がないどころか、部下たちは、部長の口マネを酒の肴にして楽しんでいるらしく、これでは上司の権威は失墜である。
 それで、見かねた私が、
《聖不煩文(しょうふはんもん)》
 という、この一節を部長氏に紹介した次第。
「あれも言いたい、これも言いたい」
 という気持ちはわかるが、説教の要諦は、「何を言わないか」――すなわち、
「あれも言わない、これも言わない。一つだけ言う」
 という心構えでなければ効果はないのである。
 カミナリも同様だ。
「バカ者!」
「やり直せ!」
「何を考えているんだ!」
 しょっちゅう怒鳴ってばかりいれば、
(ああ、またか)
 である。
 環境適応能力――すなわち「馴れ」は、人間の持つ素晴らしい能力の一つであり、これは説教や叱責に対しても言えることなのだ。
 カミナリは、不意をついていきなり落ちるほうが怖い。
「晴天の霹靂(へきれき)」
 は、だから人を驚かせるのである。
 附記しておけば、上司たる者、ときには「青天の霹靂」を演出して、部下の気持ちを引き締めるのも一法である。カミナリも、回数が過ぎれば馴れるのと同様、上司のあまい顔も、それが毎日であれば、やはり馴れて、部下の気持ちもゆるむものなのである。
 上司と部下の関係だけではない。
 人間関係すべてについて、このことは言えるのだ。

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