歳時記

人生もまた「時宜」を得て花開く

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 この日曜日に沖縄で古武道の演舞会があって、我が昇空館から、私を含め十余名が参加した。これで今年の行事はすべて終わり、あとは二十三日の稽古納めと忘年会を残すのみとなった。
 年内渡しの原稿も一段落で、少しずつ仏教の勉強に取りかかっている。
 仏教と言えば、私は四年ほど前に「お経」をテーマにした本を書いたことがある。『お経は最強の実戦ビジネス書だ』(双葉社)という本だ。「ビジネス」とくっつけたのが姑息だったか、思ったほど売れず、いまや絶版になっしまった。
 しかしながら、中身にはいささかの自信がある。
 高僧の教えや経文を題材にして、私流に解説したものだ。このまま絶版にしておくには忍びなく、折に触れてこのブログに転載したいと思うので、一読願えれば幸である。
 で、さっそく今回は、法然上人(浄土宗)で、以下、転載である。
         *  *
「ほのお(炎)は空にのぼり、水はくだりさまに流る。菓子(なし)のなかにすきものあり、甘きものあり。これらはみな法爾(ほうに)の道理なり」(『四十八巻伝』(法然上人行状絵図)
 法然上人のこの教えの意味は、説明するまでもない。
 炎は立ち上り、水は下流へと流れて行く。菓子(果物)には酸っぱいものもあれば甘いものもある――。
 一読して判然。
「当たり前じゃん」
 と言われれば、そのとおり。
「太陽は東から昇って、西に沈む」
 と言っているようなもので、
「法然もたいしたことないじゃないか」
 と揶揄されそうである。
 だが、この「当たり前のこと」に私たちの何人が気づき、生き方の指針にしているだろうか。
(こうありたい、こうしたい、あれが欲しい、これが欲しい)
 と、欲望に突き動かされ、実現しないことに苛立つ。
 思い通りの人生にならないことに、不満を抱く。
 だが、出世も、幸せも不幸も、損も得も、いや自分の存在そのものが、天の配剤によるものとしたらどうだろう。
 川の水が下流へ向かって流れて行くように、私たちの人生もまた意志と関わりなく、日々は過ぎていく。この「当たり前」のことに気づき、いたずらに欲望や願望に振り回されることなく、淡々と自然の流れに身をまかせることが大事である――法然はそう説いているのである。
 願望や欲望は、「期待」という言葉に置き換えられる。
「給料を上げて欲しい」
「出世したい」
「仕事で手柄を立てたい」
 志(こころざし)とは、「期待」と同義語なのだ。
 だから、苦しむ。
(こうありたい)
 と、現状を超えたものを求めるのだから、そのギャップだけ苦しむのは道理なのである。
 自然の流れに人生を委(ゆだ)ねることの大切さは、ここにある。
 もっとわかりやすく言えば、たとえば花がそうだ。
 桜は春に咲く。
「オレは真夏に咲きたい」
 と桜が欲しても、それは無理で、努力の及ばざることなのだ。
 反対に、春という季節を迎えれば、咲きたくないとゴネても、蕾は勝手に開いてしまう。
 これが天地の真理――すなわち、
「炎は立ち上り、水は下流へと流れ、果物には酸っぱいものもあれば甘いものもある」
 とする法然の教えなのである。
 桜が、春という季節を迎えて咲くことを、
「時宜(じぎ)を得る」
 と言う。
 我が人生が、いつ時宜を得るのか。
 あせるのではなく、その日が来るのを楽しみにしながら、季節の移ろいに身をまかせる。
 それが、人生を楽に、そして幸せに生きるコツなのである。

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