『本願寺新報』に、仏教国であるブータンのケサン王女が西本願寺を訪問したとの記事が掲載されていた。
ブータンの政策理念は、「GNP(国民総生産)よりGNH(国民総幸福度)の向上が大切」というもので、同国は「国民の9割が幸福」といわれているそうだ。
そして、ケサン王女は講演で、
「生きとし生けるものの幸福を願う、それらが自らの幸せにつながるというのが仏教の幸福観。他者のために自分の煩悩や欲望をすべて否定する『禁欲主義』でなく、煩悩や欲望にあたる物質的幸福とともに、精神的幸福とのバランスが重要」
と語ったとのこと。
講演を聴いていないので内容についてはよくわからないが、「物質的幸福」と「精神的幸福」のバランスとは、釈迦の説く《小欲知足》のことだろうと、私は解釈した。
しかしながら、「生きとし生けるものの幸福を願う」の「幸福」とは何なんだろう。
私たちが描く幸福の概念は、端的に言えば、
「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(憲法25条)
ということになろうか。
となれば、「病気の人」は「幸せでない」ということになる。
病気になって喜ぶ人はいないが、しかし病人であろうと、健康人であろうと、等しく救われていくと浄土真宗では教えることからすれば、「健康=幸福」は矛盾である。
幸福論とはかくも難しく、
「幸福とは何か」
と考え込んでいるうちに人生はどんどん過ぎ去り、還暦を迎えてなお、
「幸福って何だ?」
と頭を悩ませている。
つまり、「幸福とは何か」を考え追求していくのは、ラッキョウの皮を剥くようなもので、幸福に「実体」を求めようとする、その生き方が間違っているのではないだろうか。
小難しい理屈はいい。
世間の概念からすれば不幸であろうとも、
「私は幸せだ」
と思えるかどうか、すべてはここにあると私は考えるのである。
「幸せ」と「ラッキョウの皮」
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