稽古前のことだ。
「館長、《心》はあると思う?」
小学校高学年の生意気盛り数人が、私に論戦を挑んできた。
「バカ者、あるに決まっているではないか」
「ブブー! 《心》なんてなくて、あれは《脳》のこと」
「いや、《心》はあるのだ」
私が敢然と言い放つと、
「じゃ、どこにあるのか教えて?」
生意気にも挑発してくるではないか。
「よし、教えてやろう。ここにあるのだ」
と右手の人差指を立てて、
「よく見ろ。指の先に《心》が光っているだろう」
彼らは一瞬、息を呑んで私の指先を見つめてから、
「ウソだい」
と笑った。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
彼ら自身のために、何としても「心は存在する」ということを教えなくてはならないのだ。
「じゃ、質問する。親切な人のことを館長は『心やさしい人』と言うが、おまえたちは『脳がやさしい人』と言うのか」
「・・・・・・」
「『心がきれいな人』のことは『脳がきれい』と言うのか」
「・・・・・・」
「いいか、《心》はあるのだ」
納得したかどうかわからないが、「心=脳」という理屈に、いささかの疑問を持ってくれたようだった。
心と脳の関係については、医学においてもさまざま論議されているが、ここでは立ち入らない。
ただ、私が子供たちに危惧するのは、
「五感や理屈で確認できるものしか信じない」
という思考法だ。
こういう思考法においては《心》はもちろん、《やさしさ》や《愛情》《憐憫》といった概念は実感しにくくなるだろう。
これらは理屈を超えて「在(あ)る」と信じるものだ。
「心は在る」
と信じるから心は存在し、「心を磨く」「心やさし人間になる」という情操教育が可能になるのではないだろうか。
「なぜ人を殺してはいけないのか」
ということが大まじめに論議される世のなかが健全であるはずがなく、その背景には理屈万能――すなわち「信じる力」の低下があるように私は思うのである。
いじめについても、そのことが言えるだろう。
「なぜ、いじめてはいけないのか」
ということを、わざわざ説かなければならないこと自体に、問題の本質がひそんでいる。
理屈を超えて《心》の存在を信じるのと同様、いじめもまた、《理屈》を超えて、やってはいけないことなのだ。
いま、まさにそういう教育が欠落しているように、私は肌身で感じるのである。
今年は、「礼儀」を稽古のキィーワードとして掲げてみた。
きちんとした挨拶や態度で人に接することによって、相手に対する《敬意の心》が芽生えてくれればと思ってのことだ。
稽古前、そのことを子供たちに伝えた。
「なせ礼儀が必要なんですか」
という質問を覚悟したが、幸いそれはなかった。
だが、
「ハイ」
という返事もまた、小さかった。
さて、何から取りかかるか。
私は腕組みをして考えるのである。
「心の存在」を問う
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