私の道場の審査会は、春秋の年2回だ。
受審できなかったり、落ちたりすると次回は半年先になる。
だから何とか合格させてやりたい思い、審査会の2ヶ月くらい前から、私は気をもむ。
ところが、子供たちのなかには、私の気持ちを知らず、稽古に不真面目な子がいる。
注意すると、そのときは真面目にやるのだが、すぐにペチャクチャやり始めるのだ。
そこで、「受審保留者」というリストをつくって貼り出し、
「ここに名前のある者は、いまのままでは受審させない。しかし、真面目に稽古すればリストから外す。つまり保留者にチャンスを与えたわけで、それを活かすかどうかは、キミらの問題である」
と、そんな説明をした。
罰則で動かすことは指導者の敗北だというのが私の考え方なのだが、今回は実験の意味で、あえてやってみた。
「じゃ、受審しない!」
とケツをまくるか、恭順の意を表するか、ポーズだけ取るか。
どんな反応があるか楽しみにしたのである。
ところが、
「Aクンも一緒に騒いでいたのに、どうしてAクンはリストに入っていないんですか」
という〝クレーム〟が数人から来たのである。
これには私は驚いた。
ガッカリした。
本来、自分が「保留者」になったことを反省すべきで、他の人間がどうであれ、関係ないことなのだ。
彼らの〝クレーム〟は、
(なんであいつは許されて、自分たちはだめなのか)
という不満であり、「保留者」になったことへの反省はないということなのである。
つまり彼らは、ものごとに対して、「絶対値」でなく「他人との比較」で判断しているということだ。
私たち大人にたとえて言えば、駐車違反をしてキップを切られたときに、
(みんな違法駐車してるのに、なんでオレだけが)
という憤懣(ふんまん)と同じなのである。
違法駐車した自分を反省すべきであって、「みんな違法駐車している」という憤懣を抱くのは間違いであることに気がつかないのだ。
私は子供たちのクレームに対して、他人と比較することの愚かさについて話そうかと思ったが、まだ年齢的に理解できまい。
そこで、とりあえず、
「Aクンは緑帯だ。茶帯のキミたちが稽古をなまけるのとは意味が違う」
きつい言葉で、しかし彼らのプライドをくすぐっておいた。
何となく納得したようで、以後、稽古に身が入ってきたようだ。
そんなこんなで、子供の指導というのは、いかに難しいものであるか、つくづく感じている次第。
今月は、毎週土曜日の午後3時から、初段受審者のための特訓を行っている。
彼らも大変だろうが、私は3時から稽古すれば、午後の9時まで6時間、道場に立つことになる。
原稿は溜まっているし、
(特訓なんてやらなきゃよかったかな‥‥)
と、チラリと後悔が頭をよぎる。
指導者も大変なのだ。
子供たちの「クレーム」
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