歳時記

生き方に、なぜ「意味」を問うのか

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「お茶、飲みに行こうか?」
「お茶ァ~……。そんなん、意味ないじゃなん」
「本でも読んだら」
「どんな?」
「日本文学の古典とかさ」
「ブンガク? そんなん、意味ないじゃん」
「そんなことしたって意味ないじゃん」――最近、よく耳にするセリフである。
 ここで言う《意味》とは、本音を隠した曖昧な言葉で、
「自分にとって何のメリットもない」
 ということを言っているのだ。
 もちろん《意味》のないことをする必要はない。
 だが、私が気になるのは、何事においても「意味があるかないか」で判断しようとする、その価値観である。
 すなわち、物質的なメリットはもちろん、ボランティアなど精神的な広義のメリットをも含めて、得になるからする、損になるからしない、という価値判断は「本当に正しいのか」という疑問である。
 私は、正しくないと思う。
 なぜなら、それは犬や猫など動物と同じであるからだ。
 動物は「損か得か」で考える。「損得」が、生存に即決する彼らにしてみれば、それは当然であるし、そうあるべきだ。生き抜いて種の保存を図ることが、彼らにとって至上の義務である以上、「生きる」というそのこと自体をもって、「生をまっとうした」ということになる。
 人間は違う。
 いや、違うと私は思っている。
 人間に問われるのは、動物のように「生きる」というそのこと自体ではなく、「どう生きたか」という《生き方》ではないだろうか。
 そして、《生き方》が個人の人生観に基づくものである以上――もちろん、どう生きてもそれは個人の自由であるが――人間は動物と違うという矜持があるなら、その《生き方》を選択する際に、損得という《意味》を持ち込んではなるまい。
 もっと言えば、《意味》を超えた生き方こそ、人間が人間たる生存理由ではあるまいか。
 たとえば、故・土光敏夫氏(元経団連会長)の次の言葉をどう感じるだろうか。
「アルピニストは、峨々たるアルプスの壁に、ロープ一本に身を託して闘いを挑む。一歩誤れば千仰の谷に落ちる。それは死だ。アルピニストは、それでも闘志と意欲で登る。君はヤル気にならないからできないのだ。やらなくても命に別状がないからできないんだ」(『土光敏夫――次世代へ申し送りたく候』宮野 澄著/PHP)
 この言葉を聞いて、
「アルプス? 意味ないじゃん」
 という、薄っぺらな発想をするのは動物であって、人間ではあるまい。
 もちろん土光氏は、仕事に賭ける情熱を喚起しているのだが、私は〝アルプス〟を深読みして、「《意味》のないことに情熱をそそぐ人生」ということを考え、
(そういう人生でありたい)
 と、強く念じた次第である。

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