保護司を拝命して8年になる。
少年から還暦を過ぎた大人まで、多くの対象者と接してきたし、いまも接している。仮出獄して来る者もいれば、矯正施設には収容されないまま保護観察処分になった者もいる。
保護司は、そんな人たちに対して更生の一助を担うわけだが、
(果たして自分は、それにふさわしい人間なのだろうか?)
という懐疑が、私は拭えないでいる。
更生には《生きかえる》という意味もある。
つまり「生き方」をテーマとして、保護観察対象者と相対するわけで、これは実にしんどい。
「生き方」を説くこと自体がしんどいのではなく、それを説くにふさわしくないであろう自分が、後ろめたく、しんどいのである。
我が身を振り返れば、欲にとらわれ、易きに流れ、それでいて〝能書き〟だけは人の3倍も口にする。
(そんな自分が、対象者に「生き方」を説いていいのだろうか?)
私が仏法を学び、僧籍を得る気になったのは、そんな気持ちが根底にある。
酒をやめたのも同じだ。
酒乱から罪を犯した青年受刑者に、刑務所で面会したときのこと。
「酒、やめちゃえよ」
「やめるのは簡単だ。飲まなきゃいいんだから」
そんな話をした帰途。
(人に対しては〝酒をやめろ〟と簡単に言うが、おまえはできるのか?)
ふと、そんな思いがこみ上げてきて、
(よし、酒をやめてみるか)
と決心したのだった。
いま教師受難の時代だと言われる。
実際、教師は大変だろうと思う。
だが、生徒の指導法に悩む教師は多いが、
(自分は教師としてふさわしい人間なのだろうか)
と自問し、悩む教師がどれだけいるだろう。
教師だけではない。
親もしかり。
子供のデキを嘆く親は多いが、
(自分は親たるにふさわしい人間なのだろうか)
と自問する親がどれだけいるだろう。
《我を顧みて恥ずべきことなきや》
自戒を込めて、自分に言い聞かせるのである。
顧みて恥ずべきことなきや
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