歳時記

孤独死、大いに結構ではないか

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 老人の「孤独死」が社会問題になっている。
 今朝もテレビのワイドショーで、独居老人が人知れず亡くなっていたことを〝悲劇〟として報じていた。
 だが、「孤独死」は悲劇なのだろうか?
 もしそうだとすれば、子々孫々に看取られ、賑々(にぎにぎ)しく死んでいくことが〝幸せ〟ということになる。
 そうではない、と私は思う。
 人間は、生まれるときも死ぬときも「独り」なのだ。
 どんなに賑々しく看取られても、死ぬときは「独り」なのだ。
 経典『仏説無量寿経』のなかに、
《人在世間愛欲之中 独生独死独去独来》
 という言葉がある。
「人、愛欲の中にありて独(ひと)り生まれ独り死し、独り去り独り来(きた)る」
 と読む。
 すなわち私たちは、生まれるときも死ぬときも「独り」で、その苦難と立ち向かわなければならない――と釈迦は説くのだ。
 病気になって苦しいからといって、人に代わってもらうことはできない。 自分で立ち向かうしかないのだ。それと同様に、人生は「独り」で生き、死んでいくのである。
 こんなことを書くと、何やら暗~くなってくるが、そうではない。
「人生は独り」
 という肚(はら)のくくりがあって初めて、人生は明るく生きられるものと、私は思っている。
《ぶらり瓢箪(ひょうたん)、独りぼち》
 という言葉があるが、独りでぶら下がっているんだという厳然たる自覚があってこそ、燦々たる陽光を楽しむことができるのではないだろうか。
 老人の「孤独死」が社会的問題になる本質は、独居老人にあるのではなく、私たち社会の〝贖罪意識〟にあると、私は受け取っている。
 孤独死する独居老人が悲惨であるとする意識の根底には、
「そういう社会を生み出した私たちが悪いのだ」
「私は孤独死はいやだ」
 という思いが――各人は意識しないまま――あるように、私は感じる。
 その意識は貴いとしながらも、私は一方で、
「人生は独り」
 という真理を噛みしめるべきだと思う。
  
 孤独死、大いに結構ではないか。
 そう肚をくくれば、日々は楽しくなる。
《独生独死独去独来》――「どくしょう、どくし、どっきょ、どくらい」。
 いい言葉だ。
 さすが釈迦さんにして、この言あり、といったところか。

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