テロは言語道断。
「言論の自由」は保証されるべきだ。
これは言うまでもない。
そうとわかっていながら、フランスの政治週刊紙シャルリー・エブド襲撃は、「風刺」とは何かということについて考えさせられる。
ためしに「風刺」の意味を辞書で引いてみると、
「社会や人物の欠点・罪悪を遠回しに批判すること。また、その批判を嘲笑的に表現すること」
とある。
では、「嘲笑」とは何かについて引くと、
「あざけり笑うこと」
とある。
さらに、「あざけり」とは何かについて引くと、
「相手をバカにしてからかうこと」
とある。
つまり風刺とは、
「バカにしてからかい、笑うこと」
という意味になる。
風刺は、ジャーナリズムにとって「寸鉄」の威力がある。
政治家や実業家、芸能人など、世俗的な利害に絡む人たちに批判はついてまわるし、風刺されて当然だろう。
だが、宗教に対してはどうなのだろうか。
それがどんな宗教であれ、「信教の自由」が保証された社会において、「バカにしてからかい、笑うこと」が許されていいのだろうか。
このたびの襲撃事件は「言論の自由」に対する挑戦とされる。
まさしくそのとおりだ。
だが、それは現象面であって、本質は違うところにあるのではないかと、僧籍にある私は思ってしまうのである。
ここまで書いて、
「疲れが溜まってくると、理屈をこねる文章になる」
ということに、ふと気づいた。
そういえば、原稿を書いていて頭が疲れてくると、文章はくどく、理屈っぽくなる。
「読んでいただく」
という気持ちの余裕がなくなり、「主張」が前面に出て来るからだろう。
風刺をテーマにこのブログを書き出しながら、話がヨレているのは、
「まさに疲れている証拠だわい」
と、ひとり納得するのである。
「風刺」と「宗教」と「言論の自由」
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