酷暑、地震、豪雨。
ヨーロッパやカナダでは大規模森林火災。
そして、ネパールの土石流。
くわえてウクライナ、中東戦争。
さらにトランプという異形の大統領による世界の攪乱と混乱。
「地球は狂ってるのよ」
愚妻のお気に入りの言葉で、ニュースを見るたびに言う。
「おまえも狂っているのか?」
「私は正常に決まってるでしょ。あなたとは違うんだから」
真顔で言うところが、もはや狂いはじめた証拠だろうが、夫婦の平穏のために、そんなことはお首にも出さないで、私はうなずいて見せるのである。
親鸞が生きた平安時代末期から鎌倉時代にかけて、大地震や台風などの天変地異に加えて戦乱が相次いぎ、人々は「末法の世」が到来したと信じた。
なぜ「末法の世」であると信じたのか。
それは、人間が「答え」を求める生き物だからだろう。
すべてにおいて「なぜ」という問いかけを発し、「答え」を求めようとする。
どこまで意識しているかは別として、それが人間だ。
それも「なぜ」は、不幸なこと、意に染まないことに対して発する。
「なぜ、私は幸せなのか」
という問いを発する人は少なく、多くは、
「なぜ、私は不幸なのか」
という問いになる。
そして、「答え」が見つからなければ落ち着かず、不安なままでいる。
だから「答え」をヒネリ出す。
あやしげな宗教や占いにすがる。
すなわち、これらの深層心理は「答えを求めること」にある。
逆説的に言えば、
「なぜ、という疑問に対し、答えを探そうとする、その生き方に不幸の真因がある」
ということではあるまいか。
したがって幸福とは、人生に「なぜ」を問わず、
「ありのままを受け入れることにある」
と私は考える。
仏教が説く「如実知見」という生き方である。
「なぜ」という疑問は科学を発展させた。
戦争はドローンがするようになった。
AIが当たり前の時代になった。
だが、それで私たちはどれだけ幸せになったのだろうか。
『かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂』
よく知られた吉田松陰の言葉だが、「やむにやまれぬ」という一言に「なぜ」という問いかけはない。
私たちは、自分に対して「なぜ」を問いすぎる。
パスカルは「人間は考える葦(あし)」だと言った。
だが、「考え過ぎる葦」は不幸になる。
太陽は東から昇って西に沈む。
自然の摂理、滔々と流れ往く人生は、ただ黙って受け入れればよいのだ。