昨日、都内に所用があり、久しぶりに電車で出かけた。
放射線治療の送迎と時間が合わないため、愚妻はバスで病院へ出かけなくてはならない。
「何の用事があるんだか」
機嫌がよろしくない。
私の外出はいつだって遊びだと思っているのだ。
で、昨日の帰途。
夕方の電車に乗ると、リュックをかかえ、目の前に座っていた若い金髪の外国人女性が顔を上げて、
「座ワリマスカ?」
カタコトの日本語で言った。
思いがけないことに、私はあわてて、
「大丈夫、アリガトウ」
ついカタコトの日本語でお礼を言ってから、年寄りに見られたことに愕然としたのである。
ジーンズにジャケットを着て若作りをして外出したが、外国人の娘さんの目にも年寄りに見えるのである。
現実を突きつけられ、いささかの感慨を覚えた次第。
老いの認識には節目がある。
四十代の初め、帝国ホテルのロビーで手帳の小さな文字が読めず、老眼を認識したときに老いを感じた。
六十代なかば、浅草駅の自動券売機の前で行先までの運賃を探していたとき、案内係りの若い女性が、
「どうかされましたか?」
笑顔で、いたわるように声をかけてくれたときも老いを感じた。
せっかくなので、
「千円札で切符は買えますかな?」
あえて年寄り口調で尋ねると、
「大丈夫ですよ」
笑顔をたたえたまま親切に応対してくれたが、私としては老いをしかと認識したものだ。
だが、老いはいいものだ。
「等身大で生きていく」
と認識するのは実に爽快である。
つまり、何事も受容が肝心ということだ。
放射線の副作用で、愚妻の鎖骨や肩甲骨の周辺が黒ずみ、皮が剥けて始めた。
ヒリヒリして痛いと言うので、私が受容ということを説いた。
「痛いという現実を受け入れるのだ。抗(あらが)うから苦痛になる。受容すれば苦は転じて爽快な気分になれるのだ」
「ちょっと、人ごとだと思っていい加減なこと言わないでよ!」
怒ったが、愚妻の怒りも受容して聞き流せば、馬の耳になんとやら。
ストレスフリーになるのだ。