お盆参りも山を越えたので、昨夜は愚妻と近所の店に食事に出かけた。
昨夏もあわただしく、浴衣を着る機会がなかったことを思いだし、浴衣を着て行くことにして、
「よし、ダボシャツを下に着るか」
と言ったら、
「ちょっと、やめてよ」
愚妻が柳眉を逆立て、
「洗濯ものが増えるじゃないの」
じゃ、一生着れないことになるではないか。
そういえば、コロナ前だから4年になるだろう。
白い夏大島を着て都内に打ち合わせに出かけ、帰宅して尻の部分を見るとシワが寄っている。
話に熱を帯びてくると座り直すクセがあり、たぶん尻を何度もモゾモゾやったのだろう。
シワが寄ったのでは着られない。
「おい、クリーニングに出してシワを取ってもらえ」
愚妻は素直にクリーニング店に出かけたのはいいが、数日後、着物を取りに出かけて帰宅するや、
「ちょっと、7千円よ!」
プリプリ怒ってから、
「もう着ないでよ」
だからこの4年間、夏大島は一度も着ていない。
夏の薄物(うすもの)だけではない。
単衣(ひとえ)も、袷(あわせ)も、クリーニングを要するものは、
「ちょっと、洗濯に出すと高いんだから着ないでよ。あなた、すぐに汚すでしょ。食べものはこぼすし」
必ずNGになる。
しかし、これは本末転倒である。
本願寺中興の祖と言われる蓮如上人は、
「本尊は掛けや破れ 聖教は読み破れ」
と、さとした。
ご本尊は紙がすり切れて破れるほど何度も繰り返し掛け、聖教はすり切れて破れるほど何度も開いて繰り返し読め、という意味だ。
大事なものだからといって木箱にしまい込んでおくのは本末転倒であるということである。
着物もしかり。
ダボシャツもしかり。
しまっておいたのでは意味がないのだ。
とはいえ、たかがタボシャツといえども強行して愚妻を怒らせると面倒なので、私は着ないで出かけた。
ところが、である。
テーブルで向かい合うと、愚妻の指でルビーの指環が光っている。
ピアスもルビーではないか。
「おい、近所でメシを食うのに、なぜルビーの三点セットなのだ」
詰問すると、すました顔で、
「残りの人生を考えると、普段しなくちゃもったいないでしょう。しまっておいたんじゃ意味ないもの」
まさにこれこそ、「本尊は掛けや破れ 聖教は読み破れ」の精神ではないか。
「ならば、わしのダボはどうなのだ。着物はどうなのだ。着なくてはもったいないではないか!」
「大きな声出さないでよ。宝石は洗濯しなくていいでしょう」
サラリと言ってのけた。
意地でも、これからは着物で通すか。
「本尊は掛けや破れ 聖教は読み破れ」
蓮如上人もおっしゃっているのだ。