小山田圭吾というミュージシャンが、東京五輪開会式の楽曲担当を辞任したとか。
周知のとおり、昔のイジメが問題になったそうだ。
私はこの人の名前を今回の騒動ではじめて知ったが、五輪の楽曲担当というのは、ミュージシャンにとって大変な栄誉なのだろう。
天国から地獄。
この言葉がピッタリなのだろうが、それにしても、この逆の言葉はあまり聞かない。
地獄で仏に出会うことはあっても、「地獄から天国」とはなかなかいかないようだ。
たぶん、地獄へ「落ちる」のは簡単だが、天国へ「昇る」のは容易ではないということなのだろう。
そんなことをつらつら考えながら、先程まで日帰り温泉の湯船に浸かっていた。
ヒマだから湯船で連想は次から次へ。
「小山田圭吾」から圭吾をとっぱらって「小山田」、そして良寛の、
『草の庵に足さしのべて小山田の かわづの声を聞かくしよしも』
この句が唐突に浮かんでくる。
「草庵に長々と足を伸ばし、山間の田んぼに鳴く蛙の声を聞くのは何とも楽しいものだ」
という意味で、この句からさらに、
『露天の湯船に手足さし伸べて日帰りの トンボの飛ぶを見るも楽しき』
なんて嘯いてみたり。
小山田圭吾氏は人生の難所に苦悩しているだろうが、世間のひとりである私にしてみれば、関心はそんな程度である。
天国に昇るは難し、地獄に落ちるは易き。
そういえば親鸞さんが、
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
と喝破しているではないか。
そう、人生は地獄を生きるのだ。
そんなことをつらつら考えつつ、露天風呂で「ああ極楽、極楽」といい気分でいる。
矛盾は人間である証なのだ。